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幽体離脱体験日記
重力と表面意識この両者、正体は同じだ。しかしニュートン力学
などの古典的物理学では、重力などはその名に「ちから」が付く以上
これがどうしてもエネルギーのごとくに見えてしまう。
意識なども全く同じで、私たちが怒ったり悲しんだりするとき
あたかも脳がエネルギーを発散しているようにしか見えない。
たしかにこれらのものはエネルギーに似ている。しかし私は
物質もエネルギーもその最小単位が光の素粒子であると考えており
常に変換の前後が等価で、計量も可能なはず。
E=MC二乗によりエネルギーのディメンジョン(単位)は、グラムかける
光の速度、30万キロメートル毎秒の二乗でなくてはならないはず。
基本的には私は、重力も表面意識も計量のできない存在と考えて
おり、その最小単位が光の素粒子ではないと予想するのです。
もし光の素粒子なら他のエネルギー同様に変換が可能なはず。
しかし、宇宙の中で存在するもので、光が最小単位でないとすると
こいつらの正体がますます分からなくなる。そこでこの両者を
物質でもエネルギーでもない存在と考えたのです。
そこでこれらを言語であり、その正体は単なる数値の羅列だと
予想するのです。しかし、これらはある文法により命令形を
作ることが出来、その意味DNAと同じ種類の言語ではないかと
思うわけです。もちろん重力はその名の通り力を持ちエネルギーと
似た性質を持つことは否定できません。しかし数値の羅列で
ある以上はこれを計量することもまた不可能なはずです。
良く武芸者が殺気という言葉を使います。実はこれが計量不能の
擬似エネルギーの正体つまり重力なのです。私たちは日常を
重力場の中で生活しています。私たちが考え事をしながら道を
歩いているとその通ったあとに重力場の乱れが生じるはずです。
今の時点では人間の表面意識である数値の羅列が重力場を
書き換えてしまうと予想しているのです。
命を賭けた真剣勝負の場では人間の表面意識は自己の
命を守るべく激しく機能して戦いの場である重力場を自分に有利に
書き換えてしまうのです。もちろん殺気で人を殺すことなど不可能です。
いかに達人、宮本武蔵といえども、常人の数十倍にも及ぶ殺気を
発生したところで、それだけで人が殺せるなら、なぜ刀を二本も
持っているのか?と聞かれるはずです。
おそらく人間の発生する数値は全ての物質を構成する設計図に
相当する重力の組み換えを行う力を持つと考えたのです。
つまり、水なども光の素粒子とその設計図である重力による構成で、
人間の出した重力式により水の重力式もある程度の書き換えが
可能だということになります。しかしこれはきわめて一時的な現象と
思われ長期にその状態を保てるとは考えられません。
私は日記の中で意識は宇宙に一つしかないと説明しました。
人間の表面意識はこの宇宙に一つの意識と脳が協力して作り上げた
副産物に過ぎません。
意識は全宇宙とその表面を接しています。つまり宇宙のどんな
環境でもそのどこも必ず意識と接触しているはずです。
水中でも真空状態でも無関係です。つまり人間の脳は宇宙のどこに
持って行っても動作が保障されていることになります。
意識は反光存在で、最小単位が光の素粒子ではなく「ワン分子構造」
であり永久に変化をしないのです。もちろん、宇宙の中で、ただ
じっとしているだけで、意識自体は何の機能も持ちません。
もちろん意思や個性も皆無です。機能は脳の側にあります。
脳は常に意識の表面と接触しておりその表面をいつもたたき
続けていると思ってください。それにより意識は色んな音を出すのです。
この音に相当するのが数値であり、意識は音を出す前後で変化しません。
脳はこの数値を喜怒哀楽などの人間の個性すなわち表面意識
として活用するのです。色即是空は色触是空の意味も持ちます。
ここであの十二縁起を再掲します。
「無明」 無智 (人間の苦について知らないこと)
「行」 意志
「識」 識別作用 (眼耳鼻舌身意の、6つの識別作用=表面意識)
「名色」 五蘊 (人間を構成する要素)
「六処」 認識 (眼耳鼻舌身意の、6つの認識)
「触」 接触 (眼耳鼻舌身意の、6つの接触)
「受」 感覚 (眼耳鼻舌身意の、6つの感覚)
「愛」 渇愛 (主に物質に対する執着)
「取」 取著 (執着とほぼ同義で主に非物質に対するもの)
「有」 存在
「生」
「老死」
ブッダは無明すなわち人間が無智だから生死を繰り返すと説明する
のです。人類は全員 「おばか」 だから生きているのでしょうか?
(そんな気もしないではないが)
私は無智だとかそんな理由にかかわりなく人間は全員生死、つまりは
輪廻転生を繰り返すと考えております。実は上記の十二縁起には
大きな見落としがあるのです。それはブッダが意識に関する考察に
おいて、表面意識しか説明していない点です。意識は完全に
肉体的要素としてしか捉えてないのです。その根拠は名色の説明に
見られます。彼はここで肉体だけでなく受想行識までも加えて
説明しているのです。受は感覚、想は想念、行は意思、識は
表面意識です。これに色、肉体を加えたものが5つの人間構成
要素の五蘊と呼ばれるものです。なぜその他の項目に識や行
などの表面意識の項目が提示されているのに、肉体的要素に
意識の要素が重ねて説明されているのか?おそらくは彼は元々
これらの意識項目までもが肉体に完全に付随していると考えて
いたと思われるのです。つまり意識は単に肉体が発生させているという
医学的見地と同じ立場をとっているということになります。
私はこの点、別の見解を持つのです。それは肉体と意識が
相互依存的に作り出すのが表面意識であると考えるからです。
そしてブッダとの決定的違いが、表面意識は物質的要素を何一つ
持たないという指摘です。つまり上記で説明したとおり、肉体は
物質要素で最小単位が光ですが、表面意識は、単なる数値と
捉えているために物質要素が皆無であるということです。
言い換えると、物質要素(光素粒子)である肉体と非物質要素
(非光素粒子)である表面意識とは相互依存的関係ではあっても
最初からその本質が別物であり、名色のように混同した扱いを
すべきでないと考えるのです。
一般の人が考える解脱とは大方意識だけでの存在という意味では
ないだろうか?ブッダの考え方はまるで違うのです。
おそらく涅槃(ネルバーニャ)や梵我一如などもイメージ的には
意識単独存在と理解されているのではなかろうか?
しかしながら上記の十二縁起で分かるとおりに無明が消えると
人間存在の要素は全部消滅してしまう。これは人間を完全な無に
帰するという途方もない考えだ。もちろん意識も何も残らないのです。
こうしてみるとブッダは神を超えようとしたのか?その目指したものが
何なのか理解できなくなる。人間を輪廻転生の枠から外すことは
神にさえできぬはず。なぜ出来ないのか、これから出来る限り
分かりやすく説明したい。
そこで分かりやすくブッダの見落としを説明するために、私が正しい
と考える改良型の縁起の法則を提示したいと思います。
なぜ七縁起かというと、十二よりも七の方が縁起がいいからです。
「空」 宇宙に一つの意識
不生不滅 不垢不浄 不増不減 であり意思を持たず宇宙の中で
唯一永遠に変化しない存在
「色」 肉体
光と重力による相互依存的、物質的存在 DNA式も重力に分類
「名色」 エネルギー
光と重力による相互依存的、物質的存在。食物より摂取した
熱エネルギーは重力式の組み換えでいつでも他のエネルギー
電気エネルギーなどに変換され、肉体や脳の動作が行われる。
「識」 表面意識
脳と意識が相互依存的に作る副産物でありその正体は重力と
同じ数値
「行」 意思
肉体を持つものに与えられる自由行動の特権
「生」
「老死」
(再び空に戻る)
上記の説明で赤は光の素粒子つまり物質存在で青は最小単位が
光の素粒子でないもの。つまり非物質存在。緑はその両者の
相互依存的存在だが宇宙に存在するものは全てがこの両者の
相互依存的存在であり、常に単独存在は認められないので誤解の
ないように願いたい。
もちろんこの七縁起も空あるがゆえに色があり、色あるがゆえに
名色がありと老死まで繰り返して再び空へと循環するように
構成されます。
(ただし名色はブッダの意味とは違い名前だけの物質という意味で
エネルギーのことです。生命活動にはこの要素、はずせません。)
ここで十二縁起と七縁起を比較して欲しい。
ブッダの十二縁起は無明を消去すると、残りの十一の要素も
全部消滅する。しかし七縁起では、人間が死んだ後も空だけは
どうしても残ってしまう。空は人間の生死に関わりなく永遠に不滅
だからです。そこで、人間の死により空だけが残ると、この空は
再び空即是色の法則により空あるがゆえに色がありと新たな循環を
求めてこれを永久に繰り返すのです。つまり輪廻転生はこの永遠に
不滅の「空原理」により強制的に引き起こされているという結果となります。
空を消去するのであれば、この宇宙そのものや神の存在までもが
無に帰するという考え方となり、そんなことが出来るはずがないのです。
私は日記の中で、存在の法則に付き十二縁起でなく色即是空を
採用しました。色即是空は人間存在以外の宇宙の存在全ての
説明が出来るだけでなく、空原理による輪廻転生のメカニズムまでも
説明できるのです。十二縁起が優れた思想であることは認めます。
私は今でもブッダが偉大な人物であり尊敬することに変わりは
ありません。しかし尊敬する人物でも意見が違えば堂々と発言
すべきと考えます。
私たちの輪廻転生は永遠に変化しない空原理により引き起こされる
必然の結果であるといえます。空は色を求め、色は空を求める
という色即是空の法則は、永久の約束事でありここから逃れることは
神にさえ出来ないはず。空すなわち宇宙に一つの意識と色の中の
重力(人体の設計図である連立方程式)は永遠に変化しないものと
永遠に変化を続けるものとして一対一対応を永遠に続けるのです。
しかし、誤解して欲しくないのは私たちの死後、別次元宇宙に
肉体そのものの持込は出来ないということです。この件は何度も
説明したのですが、物質である、お金や財産も持ち込み禁止です。
記憶も捨てていかねばなりません。結果は新しい人生のゼロからの
やり直しであり、前世の私と現在の私は共通の記憶に支えられていない
別人格者であり、同一性格者なのです。つまりは私たちの輪廻転生
において生まれ変わるのは私という個性だけです。アルトマンは重力
であり、人体の設計図であるため個性以外の全ての要素は
連続性を持たぬのです。しかし人間は私という言葉を自分という
個性であるという意味で使うはずです。私たちに個性が無ければ
私という言葉は使えないはずです。よって個性の生まれ変わりのみ
の輪廻転生でもそれは私の生まれ変わりであると断言できます。
私たちの宇宙では光は30万キロメートル毎秒の速度を持ちます。
光の速度が一定なのではなく光の速度が変化すると別次元宇宙
という切り離された存在となり認識不能となります。
これは物質が光の素粒子より出来ているために起こる当然の
結果です。光ボックス理論での説明で、光素粒子の集合体である
物質は完全に光としての性質を失ったわけでなく、再び、物質を
光に戻すと30万キロメートル毎秒の等速度を取り戻します。
これは慣性の法則です。つまり光素粒子の集合体である物質も
30万キロメートル毎秒の等速度運動の性質を完全に失った
わけではなくその性質を一時的に隠しているだけなのです。
そして物質は全宇宙においてこの光の速度と同期することにより
同一次元宇宙を構成するという考えなのです。宇宙は全部光の
素粒子だけで構成され、なんらかの方法で全部元の光に戻せると
いうのが光ボックス理論なのです。そこで元に戻した光の速度は
同一次元内で全部等速であるという結果となります。
私たちの肉体はじめ、宇宙の全物質はこの次元でのみ有効で
別次元に持ち込むことは不可能です。従って死後の肉体は
性質が似ているだけで全くの新規作成物だということになります。
私たちは正常な状態で24時間経過したのに、まだ一分しか経過
していないと認識することはありません。これは睡眠中でもある程度
正確な時間感覚を持つはずですが、私は自分自身の幽体離脱体験から
この時間というものが人間にとっては体感時間に過ぎないと強く
認識したのです。そこから導き出した答えは人体はその宇宙の
光の速度に同期しているというものです。言い換えれば人間だけでなく
全ての動植物が、自分の生活のリズムと光の速度を対比させる機能を
持つということになります。
ブッダの基本理念の出発点は「苦集滅道」であります。
苦 苦について正しく知ること。人生には確かに苦があると認めること
集 苦がなぜ生じるのかを正しく知ること。十二縁起では無明ありて
生死があり生老病死の苦しみがあるということ。
滅 苦が滅に至る方法を知ること。つまり無明を滅に至らしめると
いうことです。
道 苦を滅するための修行法のことで八正道などをさしています。
ブッダの出家した理由は、苦の滅に至る道を求めることです。
生老病死の苦しみを四苦と呼びます。人間の基本的苦しみです。
「こは、苦なり」 つまり人生そのものが苦であるという見解です。
皆様方はどのようにお考えでしょうか?
ブッダの考えに賛成する方も多いのではないでしょうか?
私はこのような考え方に全面的に反対です。なぜ反対かというと
神の立場を良く考察してみたからです。以前説明したように神は
宇宙の全記憶を所有しており、私たち人類も含めて、宇宙の全責任を
一人で背負わされているのです。私たちが悩み苦しむ姿を共に
共有してそこから目をそむけることが一秒たりとも許されては
いないということです。それに対して私たち人間は、たかだか数十年の
短い人生の記憶のみしか持ちません。つまりその一度の人生の分
だけしか責任を負わされてはいないはずです。もし、私たちが1万年も
前の記憶を持ち、反省を迫られるならば大半の人が発狂するでしょう。
私たちの責任は神の責任の足元にも及びません。もし明日宇宙から
辞令が届き、あなたを本日より宇宙創造神に任命すると言われても
多分全員がお断りするはずです。自分の人生だけでもこんなに
大変なのに、人類全員の問題まで逐一報告されて自分も一緒に
悩んで解決法を見つけてくれと言われてもそんな重圧に誰が耐えられる
というのでしょうか?もっと楽そうな仕事がたくさんあります。
私なら、神様の激務を選ぶくらいなら、時給500円でもいいから
生きていけるだけでも十分、そう考えるでしょう。
神の立場とはまるでキリストが十字架にかけられたのと似ています。
あれほどの苦しみを味わいながら人類の苦しみを自分一人で背負うと
いうのならば私たちの苦しみや悩みなどはとるにたらない小さなものに
思えてくるのです。神とはそんな重圧に耐える知恵を持つ存在なのです。
神はおそらく宇宙の全責任を背負ってはいても喜びの極地に
常住していると考えるのです。おそらく禅定により得られる三昧
すなわち、生きることの喜びの極地にいるのではないかと思うのです。
そのようなことがなぜ可能かというと、神には深い知恵が備わって
いるからです。言い換えれば宇宙の秘密を全て知り尽くしていると
いえるでしょう。その境地は苦を苦として認めながらも、その苦を
必ず解決できるという自信に満ち溢れているのです。ただし何度も
説明したように、神は自分自身を誰も助けてはくれないように、
私たち人間に、答えを教えてはくれません。私たちは神に支配
されていないからです。神が深い知恵により問題を解決するように
人間にも神と同等の知恵が備わっているはずです。私たちは自分の
人体という宇宙を支配するのであり立場は神と同じです。
いつでも困難を自分で解決出来る能力を有しているのです。
私は日記の中で解脱という言葉を自分の意見の中では一度も
使いませんでした。なぜかというと、この言葉自体が好きに
なれないからです。世の中には人生に絶望して自殺する人が
大勢います。しかし、そのような人は来世でも人生に絶望して
死を選ぶ可能性が高いと思うのです。今が楽しくなければ永遠が
楽しくないはず。これは慣性の法則です。解脱とは永遠の自殺を
意味するものです。なぜならその根底には「こは、苦なり」すなわち
人生は元々苦であるという断定的な見方しかしてないと思われるからです。
神はどのように考えているのでしょうか?人生がつまらぬものとの
断定は私たちの人生そのものを否定する考えでしかありません。
私たちの人生は無意味でしょうか?そうであれば生まれるという
こと自体に問題があるはずです。私は人生にどんな困難があろうが
常に明るく前向きに考える人の方が有意義に人生を送れる
そう信じております。従って解脱という概念は単なる絵空事と
考えており人間が永遠に人間であり続ける、これが私の基本理念です。
人間の存在を無に帰してしまうという物理の法則を無視した考えは
完全な誤りであると指摘しておきたい。神にさえ出来ないと。
登山家の気持ちは私には良く理解できません。毎年のように遭難して
死んでいる人がいます。もちろん登山家たちも危険は承知の上でしょう。
テレビで登山家が、サバイバル。テクニックについて楽しそうに話していました。
その人はナイフ一本で1週間は生き延びて見せると豪語するのです。
普通の人が遭難という言葉を聞いてそれが楽しいものだとは誰も
思わないでしょう。しかしこのような死に直結するような人生の危機を
登山家はどうやら楽しんでいるようにしか見えません。もしかしたら
本当は自分が遭難するのを心のどこかで待ち望んでいるようにも見えます。
なぜある人から見た苦難がある人からは趣味にまで変化するのでしょう?
おそらく、これは自信であると思うのです。登山家は自分のサバイバル
技術に自信を持つがゆえに遭難を苦であるとは感じていないのでしょう。
私たちも人生において良く遭難します。遭難したら、あとは自分のテクニック
だけが頼りです。人生においても登山家のようになれるはずです。
マラソンランナーは40キロを全力で走ります。私はいやです。
なぜ自らそんなに苦しい思いを買って出る必要があるのか?疑問に
感じるからです。しかし実際にマラソンの選手は苦しいからいやだとか
いやいやながら走るでしょうか?もしそんな選手がいたとしても
世界では通用しないはずです。もちろん彼らは走るのが好きなはずです。
私たちの苦難というものは所詮はこのようなもののはずです。
苦難に耐え切れずに死を選ぶ人はこんな風に視点を変えることが
出来なかったのでしょう。まことに残念です。
多くの人がそれは死であるというでしょう。しかし私のように幽体離脱や
臨死体験を経験した人が多くの場合死を全く恐れなくなるというのは
事実であります。ただし私のケースは微妙で、死後意識が消滅することに
対する不安ではなく永遠に意識が無くならないという事実にいやけが
さすのです。これは実際に体験していただかないと実感は不可能でしょう。
死後意識が消滅すれば永遠に寝ていられる。本気でそんなことを
考えるようになるのです。しかし死を恐れなくなった人間に世の中で
怖いものなど本当にあるのでしょうか?実はあるんです。私は
貧乏ですからお金が無くなると不安になります。また今日も松屋の
ブタドンか。たまには生卵くらい付けてみたいとぼやくのです。
(吉野家でないのは松屋は味噌汁が付くから)
まことに人間とは勝手なものです。しかし幽体離脱体験前は
はっきり申し上げて死ぬことが一番の恐怖でした。その意味では
幽体離脱体験は人生最大の苦を取り除く最高の手段であるという
ことだけは事実です。ただしその後も全く苦悩を感じないかというと
そんなことは有り得ません。いつも自分で問題解決を迫られるという
プロセスをなくしたら人間としての存在意義がなくなり、般若波羅蜜多の
知恵の出番もなくなるからです。
2500年前ブッダは自帰依法帰依という今までにない考え方を
提示しました。自分と真理だけを頼りにして生きようというのです。
こんな昔に、これほど優れた思想がすでにあったのです。もちろんブッダの
意見と私が相容れない部分が多いということは、ご紹介した通りです。
私たち人間は自由な意思で行動します。その代償として人生に
対する責任を負うのです。もしそんな人生の中で苦難に出会うとき
神の立場を深く考察してみます。神は自分自身、宇宙の全責任を
負うのです。私たち人間の苦悩などは取るに足らないものかも
しれませんが、私たちも神と同じ問題解決の手法である、内在された
深い知恵、つまり般若波羅蜜多を所有しているはずです。
誰にも助けを求めることは出来ません。自分を救うのは神でも
救世主でもなく、観自在菩薩、すなわち自分自身だからです。
このように死や神について深く考察を重ねれば今を生きる方法が
見つかるはずです。
人生を楽しいものにするためにはブッダの八正道が不可欠だと思います。
もちろん目的はブッダのように解脱することではありません。
人生をより楽しむために、これを実践するのであり、目標が完全に
違うところにあるのです。正しい見解を持つということ。これは公平な
立場による判断です。他人に思いやりを持てばそれでよいと思います。
正しい言葉を使いたいものです。たとえ会議や議論の場でも相手に
失礼のない言葉を選ぶべきです。こんなことブッダに言われずとも
皆が分かっていることだと思うのですが、乱暴な言葉はいずれは
自分を不愉快にさせることでしょう。
イエスのなんじの敵を愛せよなども永遠の真理でしょう。
自分に正直に他人にも正直に生きること。すこしでも卑怯な生き方を
すれば最終的には自分が楽しくないだけです。そんなことは全員が
理解はしているのでしょうが、私も含めて十分気を付けるべきでしょう。
八正道の最後の項目の正定(禅定)は人生をより良く生きるためには
不可欠な要素です。毎日の日課にすれば、やがてそれが素晴らしい
境地であり人生を楽しくするための、唯一の手段であることが
分かるはずです。三昧の境地の先には宇宙即我の境地があるそうです。
この境地はおそらく神と記憶を共有できる境地と考えております。
人間は永遠に人間であり続けます。しかしこの境地では宇宙の全記憶を
神と共有して人間が神と同一人格者と成れるのだと思います。
もちろん宇宙の全責任を引き受けても喜びの境地に常住することが
可能です。これが般若波羅蜜多の知恵の極地と考えるのです。
このような大それた、いわゆる悟りの境地に至らずとも、常に神に対する
考察を重ねることにより人生に対する究極のプラス思考が出来れば
それだけで十分楽しい人生が送れるはずです。今が楽しければ
永遠もまた楽しいそう思えるはずです。
私たち人間は神に支配されているのではなく、自分という宇宙を
各自が自由に支配できるのです。
宇宙の真実は今回を持ちまして一旦終了させていただきます。
しばらくお休みします。またしばらくしたら新シリーズを再開する予定です。
なにか参考になりましたでしょうか。質問や反論もお待ちしておりますので
掲示板をご利用ください。
今後の新シリーズでは、いくつかの候補を考えています。日記の続編
まだ伝えきれない話が山ほどあります。最近もきわめて不思議な体験を
いたしました。まるでゲームセンターで遊んでいるような話で、大変
愉快でした。霊界の構造も詳しく解説したいと考えております。
また掲示板で質問のあった宇宙人の話なども。これには進化論の
説明が必要です。なぜ人間が猿から進化したような錯覚をするのか?
実はここには神の人間創造の思考のプロセスの跡が読み取れるのです。
地球上の生態系は全宇宙で共通のはずです。人間を頂点とした
生態系のピラミッドは重力式に共通項が使われるために知的生命体は
どこの次元の宇宙でも人間にそっくりなはずです。
つまり宇宙人のイメージは誤りだということです。
それではまたお会いできる日を楽しみにしております。
そのときまでお元気で。
ヨッシーより
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