幽体離脱体験日記

2 デジャブの宇宙
(皆、空なり)

2005年6月10日

天地創造


神は天地を創造された。

地は混沌であって、闇がすべてを支配し、水の霊がその面を

覆っていた。

神はまず光あれと言われた。するとそこに光があった。

神は光を見て、良しとされた。光と闇を分け、光を昼と呼び

闇を夜と呼ばれた。夜となり朝となった。第一日の日である。

あの有名な聖書の創世記第一章です。

この後、神様は7日かけて宇宙を作ります。

この宇宙の始まりの様子は現代物理学が提唱する、ビッグバン理論や

あらゆる宇宙論よりも正しいことがやがて証明されることでしょう。

宇宙も人間と同じく、海のような場所から生まれ、1週間で再生するのです。

人間が死後1週間で別次元に再生することは、以前から説明のとおりです。

ごく最近宇宙は最初高温高圧のガス、つまりは気体であったというのが

誤りで、実際は液体であったことが実験で証明されたのです。

この件は別にして神様はいったい何を根拠に宇宙を作るのでしょうか?

もちろん行き当たりばったりで作っているわけではありません。

実は地球や太陽などの天体のすべてにその設計図に相当するものが

あるのです。実はこのことが自分たちの体験から容易に推測ができる様に

神様は仕組んでおられるのです。この仕組みを般若波羅蜜多の知恵で

見抜くことが出来、般若心経には 度一切苦厄、すべての苦しみから

救うと説明されています。

宇宙という生命

私は宇宙が無限に連鎖していると考えています。

それは人間が親から子へと無限に連鎖している様子と似ています。

宇宙もマザーからチャイルドへと、次々に連鎖し、まるで原始的な生命が

分裂する様子に似ています。こう考えると宇宙は最初から存在した生命体

であり私たちが知る生命の根源であると考えることが出来ます。

おそらく今、私たちが知る生命のすべてが、宇宙をモデルとしたもので、

そのことにあまり気づいていないだけだということになります。

神様が人間や地球を作ったと表現すると多くの人が反発するでしょう。

しかし人間や地球を宇宙が作ったと表現するなら多くの人がそんなことは

当たり前だと考えるはずです。現実に、おやじがビールを

飲んでいる間も宇宙はどこか遠くで銀河や地球のような天体を作り続けます。

その中には地球に似た天体や、もしかしたら人間だって作られているかも

しれません。これらの宇宙創造の働きは宇宙の働きであると知れば

宇宙が人間を作ったと表現しても誰も非科学的とは非難できないはずです。

幽体離脱体験の意味するもの

記憶領域の存在意義

幽体離脱体験日記では離脱の模様をできる限り詳細に伝えたつもりです

ここでもう一度その場面を振り返って、冷静にそこで何が起きているのか

考えてみようと思います。まず離脱が起きる前には必ずトランスという前兆

現象が起こります。これは意識が別次元に自分の肉体のコピーを

作り始めたという合図です。私は気が付くと普段の自分の部屋の中に居ます。

しかし良く部屋を見てみると自分の部屋とは違うことにすぐに気づきます。

つまりこの部屋は本当の自分の部屋ではなく、別の次元に作成された

自分の部屋のコピーなのです。この部屋は今住んでいる自分の部屋に

そっくりですが、時々、昔住んでいた部屋が霊子ドームとして再現される

こともあります。この件からひとつだけ断言できることがあるのです。

それは私の幽体離脱は自分の記憶を別次元の宇宙に再現する

働きがあるということです。もちろん一番新しい記憶が優先されますが

時々古い記憶も再現されるのです。当たり前の話ですが、だから

自分の顔を離脱中に鏡に写しても、普段の自分の顔と変わりがないのです。


私は単なるコピーでしかない

私という人間は単なる親のコピーにすぎません。

なぜなら私という人間の設計図はDNAであり、このDNAは親のものを

コピーしただけのものです。おそらくどこをどんな風に調べ上げても

親のDNAと私のそれは寸分違わないということになります。

結果、私という人間は完全なる親のコピーであるということが出来ます。

ただし肉体的には完璧に同じであっても、私は親の人生の記憶までは

持っていません。この件は宇宙の秘密を知る上でも大変重要な意味を

持ちますが、私の日記をごらんの方にはその秘密すでにお分かりのことだと

思います。

しかし、驚いたことに人間は私もあなたも親もそのまた親もコピーでしかなく

この人こそ原本、あるいは本質的人間である人などどこにも存在しません。

つまり人類全員が単なるコピーであると結論できます。


宇宙創造の秘密

聖書創世記には「神は自分の姿に似せて人間を造った」と書いてあります。

私は人間も神もまったく同じ機能を持つものと確信しております。

神は宇宙を創造します。つまり宇宙は宇宙を生むのです。

このメカニズムについては幽体離脱とまったく同じシステムが採用されて

いると推理できます。


上の図は死後世界の構造で提示したものです。

4の宇宙から3が、3の宇宙から2が生まれ、

2の宇宙から1の宇宙が生まれます。宇宙は人間の生物学的分裂

の様子や幽体離脱体験から、次のようにして生まれていると推理が出来ます

つまり1の宇宙は2の宇宙の記憶領域を参考にして作成されているのだと

いう推理です。つまり宇宙の記憶領域は我々の人生の記憶と同じで、

2の宇宙の記憶領域にはその宇宙が誕生してから現在に至るまでの

全ての記憶が保存されており、1の宇宙ではその記憶がリプレイ

されると考えられます。つまりこの記憶領域は人間のDNAに相当する

部分であり、宇宙も人間も全く同じ機能を持つと考えられます。

そこで次のような結論が出ます。私たちの宇宙のマザーには

地球や太陽とそっくりな天体が存在しているのだということです。

もちろん細部が微妙に違うということも付け加えておかねばなりません。

もちろん私たちの宇宙はマザーのそのマザーつまりおばあさんの

宇宙にもどこか面影が似ています。それは2の宇宙もまた3の

宇宙のコピーであることを考えると当然です

記憶領域は設計図

こうして考えてみると記憶領域が宇宙や人間の人生の設計図に相当

しているのだと分かります。

ここから先が重要です。人間も宇宙と全く同じ生物学的ではない分裂を

繰り返すという事実です。つまりこれが輪廻転生の実態なのです。

神は宇宙という自分を別次元にコピーして再生します。

人間も宇宙と同様に死後自分の人生をリプレイする機能を持つのです。

私たちが今なしている行為は来世に持ち越され、その責任を全て

とらされる結果となります。

しかしこの件は宗教的な意味合いとはかなりかけ離れています。

宗教的な考えでは今私たちがなしている行為は死後神により裁かれると

解釈されていますが、記憶領域がリプレイされるという考え方では

私たちは神により裁かれるのでなく、自分自身に裁かれるのだという

解釈が正しいことになります。

天国と地獄、大きな誤解

天国や地獄は実在します。しかしその基本的な考え方は宗教により

大きくゆがめられていると言えます。

まず第一の間違いは悪いことをした人間が地獄に落ち、良いことを

した人が天国にいけるという考え方です。

私たちの地球上にも確かに天国や地獄が存在しています。

イラクでは人が死んでもニュースにもなりません。私たち日本人から

見るとまさに地獄です。しかしそれでは日本が天国かというと、私たちは

そのようには認識していないのだと思います。地球上の環境には

確かに良し悪しが存在します。しかしそれは比較した相対的な評価

でしかないといえます。地球上のどこに住んでいる人でも

決して自分の生活に全て満足はしていないのです。一般には天国と

地獄は別の空間に存在していると考えられているようですが、地球だけ

見ても天国や地獄のような環境の違いが現実にあるのです

記憶領域が織り成す人生

私たちの人生では出会いと別れが繰り返されます。

しかしこの記憶領域はお互いの人生を縛りあうという極めて不便な

(あるいはロマンティックな)特性があるのです。つまり記憶領域は来世を

設計するに当たり、その生活環境、たとえば地球やその生活圏などを

決めると同時に同じ人生の中で登場する仲間たちを強くひきつけあう

という特性を持っているのです。これは当たり前の話で、人生の設計図が

記憶領域に委ねられているので、その結果記憶領域同士が強く

引き寄せあうという結果となります。

もちろん当の本人たちには、この件は知らされていません。多くの人が

人生で多くの人と偶然出会うのだと考えています。この考え方は

地球や太陽が偶然今のような形になったと考えるのと同じ根拠に

基づくものです。記憶領域の存在を知った人は、宇宙が設計図の通り

作成され、人生で出会う人、全てに最初からシナリオが用意されている

ことに気づくのです。

皆、空なり

人間も宇宙も私たちが目にするもの全てがコピー(幻覚)でしかないと

いえます。つまり全てが空なのです。

言い方を変えると宇宙は宇宙のデジャブ(思い出)で出来ていて

人生は人間のデジャブで出来ているという結論になります。

誤った考え方とは

唯一絶対という思想

ここで皆、空なりという考え方の大局に位置する誤った考え方を

参考までに提示しておきたいと思います。

この考え方は般若心経では「転倒夢想」と説明されています。

つまり皆、空なりという考え方と全く相反する考え方に自分という存在こそは

本体である。あるいは宇宙は自分たちの住んでいる宇宙こそが存在の全て

であるという誤った見解です。この見解を採用すると死後世界を否定する

結果となります。つまり自分の人生は唯一絶対であるならば、当然死は

全ての消滅を意味します。この絶対という考え方は宇宙にも適用され

私たちの住む宇宙こそが全てであるという誤った見解からは死後世界は

見えてきません。なぜならば宇宙が一つしかないのなら、私たちの住んでいる

宇宙のどこにも死後の世界など存在しないからです。

そしてこの考え方は夢や幻覚を非実在。自分の人生を実在と捉えます。

私たちの宇宙から見た別次元の宇宙を幻覚と呼びます。逆に別次元宇宙

から見た私たちも幻覚と呼ばれるのです。つまり夢や幻覚は別の次元で

起きている現実であるというのが正しい考えで、同時にどちらもコピー

でしかない。つまりどちらも幻覚であり、同時に物質である以上

どちらも実在であると捉えることが、皆、空なりという正しい見解なのです。

しかし全てがコピー(幻覚)であると気づいた観自在菩薩

(アポロキティーシュバラー)は度一切苦厄(全ての苦しみから救う)

と般若心経では答えています。しかしどのようにしてとは書いてありません。

実は観自在菩薩は全てがコピーであると気づいたとき、ある宇宙の

とんでもない秘密に気づいてしますのです。

この秘密についてこれから詳しく説明をしたいと思います。

つまりこれこそが宇宙の秘密の中でも最大級の秘密で

この件を深く理解された方、私はその方を悟りの境地に到達された方

「正等覚者」と呼んでも差支えがないと考えております。

記憶領域の秘密

度一切苦厄

実はこの記憶領域にはとんでもない秘密が隠されているのです。

私たちの運命はこの記憶領域が全てを握っているのです。

つまり一般的に人間の運命は神がコントロールしているという考えは

全くの誤りであると指摘しておきます。神の肉体である宇宙でさえ

この記憶領域により自在に設計されるのです。人間の人生も宇宙と同じ

システムにより、自分の人生が来世を決定するという構図であり

ここからいえることは私たちは輪廻転生の長い旅の中で毎度同じような

人生を繰り返しているのだと言えます。なんだかとても無駄なことをしているよう

にも感じます。客観的にこのような同じ人生の繰り返しはまるで悪夢

のようにも感じます。しかしこの悪夢から逃れる手立てが一つだけあるのです。

それは私たちの記憶領域に関する深い考察から生まれるのです。

記憶領域には人生の全てが記録されどんな些細なことも見逃してはくれません。

24時間我々は厳しく記憶領域に見張られているのです。

この記憶領域こそが、実は閻魔大王の正体、私たちから見れば血も涙も

ない鬼のような裁判官なのです。

しかしこの裁判官にはすこし間抜けな部分も存在します。

その秘密とは記憶領域はある程度の書き換えが可能だということです。

反省の持つ意味

来世は必ず良くなる

私たちの人生は決して完璧なものではありません。

むしろ失敗の連続というのが実情でしょう。

失敗をすれば誰でも反省をしますが、人間とは実におろかで、

(特にこのおやじなど) 何度か同じ失敗を重ねないと懲りないのです。

一般に人間以外の動物は一度犯した過ちを二度と繰り返さないと

言われます。人間は他の動物以下なのです。しかし人間も何度か

同じ誤りを繰り返すうちに、もう失敗をしなくなります。

なぜ失敗をしなくなるのかというと、記憶領域に深くその失敗が刻まれたから

だと言えます。つまりこの記憶領域は反省という行為により書き換えが

可能であると考えられます。この件から別段、死後世界を信じていなくとも

結果として人生は今生より来世が来世よりさらにその先が徐々にでは

ありますが必ず良くなっているのだと推理が出来ます。

しかしその歩みは実に穏やかでノロノロとしたものでしかありません。

そこでこの秘密に気づけばある裏技が存在することに気づくはずです。

ブッダの八正道を思い出してみましょう。8つのカリキュラムの内

7つまでが正しい日常生活を送るというもので、最後の正定だけが

非日常的な瞑想法及び禅定法だと以前説明しました。この記憶領域の存在を

知れば日常生活がいかに大切かは誰にでも理解が出来ます。

しかし禅定や瞑想はいったい何の役に立つというのでしょうか?

摩可止観

禅定と瞑想は全くの別物です。禅定は、何も考えず何もなさずが

基本ですが、瞑想はある一点の考えに集中します。

まず瞑想の持つ重要な意味について説明します。

仏教では反省的な瞑想法を止観と呼びます。摩可止観とは偉大なる

瞑想法という意味です。人間は表面上だけの反省では又同じ過ちを

繰り返します。失敗を一度で済ませる方法が反省的瞑想法です。

唯一この方法によってのみ効率的に記憶領域の書き換えが可能と

なるわけです。記憶領域はこのようにCD−ROMのような装置であると

理解していただいて結構です。もちろん人生体験から大きくかけ離れた

書き換えはその性質上不可能だと考えられますが、ある程度の

書き換えは可能です。例えば私は今AとBとどちらの道を行くか

悩んでいたとします。結果Aを選んだ私はその結果が失敗であったことを

後で気づきます。私はBを選ぶべきであったのです。この程度は反省的

瞑想法で本当はAを選んだという私の記憶領域の記録をBを選んだと

書き換えることができるのです。

瞑想の重要性

このように見てみるとブッダの八正道の8番目のカリキュラムである

正定がいかに人間の生活に重要な役割を果たすのかが良く分かります。

しかしこの正定はブッダの発明品ではありません。おそらく彼の時代の

1万年程前には、全員がこのことを知っていて、人類全員が毎日の日課

として瞑想を行っていたのだと考えることが出来ます。

特に瞑想法の中でもこの反省的瞑想法(止観)は重要な人生向上の

手法であると考えられます。この瞑想は来世のみならず、今の人生も

より良いものに変える効果があるのだと推理できます。つまりこの記憶領域は

今現在生きている人間の生活にも影響を与えていると考えられる

からです。言い換えればある程度の即効性もあるということです。もちろん来世

への影響のように絶大な影響は与えることが出来ませんが目には見えない

効果が考えられます。瞑想は一石二鳥の人生プログラムの改善法であると

いえます。

それでは瞑想法に効果があることは確かだが、正定のもう一つの項目である

禅定法はいったい何のために行うのでしょうか?瞑想と禅定は全く逆の

ことを行う手法であり、瞑想がある一点に考えを集中するのに対し、

禅定は何も考えず何もなさずと、瞑想とは全く逆のことをするわけで、

禅定には実は瞑想とは全く違う目的が存在するのです。

ブッダの思想

ブッダはこの輪廻転生こそ生老病死の諸悪の根源であると考えていたのだと

思います。もちろん生まれてこなければ何の苦しみもあるはずないのです。

しかしこの考え方、根底から私たちが今ここに生きているという基本的

前提条件を悪として決め付けるもので、それでは生きるということに

何の意味もないのか?という当然の疑問が生まれます。

もちろんすでに2500年も前の話、ブッダの本心など知る方法も

ありません。ただ今残る資料から彼が弟子たちにこの輪廻転生からの

脱却という途方もない教義を毎日説いていたことはおそらく歴史上の

事実であると考えられます

そして彼の究極の目標は解脱つまり輪廻転生からの脱却です。

本当にそんなことが可能なのでしょうか?結論からいいましょう。

我々はこの輪廻転生の定めから抜け出すことは決してできません。

もちろんいつも通り神にさえ出来ないのだと、付け加えておきます。

人間の存在を無に変えることは空の消去意外に手立てがないのです

空(宇宙に唯一つの意識)の消去は宇宙存在の全ての消去を意味します。

なぜなら色と空は色即是空、お互いに相互依存的存在であり

表裏一体の存在だからです。どちらも単独では成立しないという原則から

輪廻転生からの脱却は不可能と断言できます。

神にさえ変えられぬ物理の法則

私たちはブッダよりも2500年も後の時代に生まれました。

その間科学は進歩したのです。私が提唱する物理の法則=宇宙の真理

という考え方は、無から有は生じない。又、存在を非存在に変えることは

出来ないという考え方です。宇宙では常にエネルギーと質量の総和が

一定であり全てが循環していると考えられます。

もちろん我々の宇宙から別次元に流入及び流出する、総量が常に

ゼロになるように管理されているのだと推理しています。

(もしかしたら宇宙単独での総量は変化している可能性も否定はしませんが

宇宙全体で総量が一定であることは疑いようがありません。)

そして我々の宇宙で通用する法則は全宇宙で通用するのです。

結果全宇宙での存在の総量が常に一定だという結果となります。

宇宙での存在は、不増不減、不生不滅であるという考えが私の基本的

思想なのです。存在を非存在に変えることは神にさえ許されないのです。

それでは輪廻転生から逃れられない人間とは神への道を歩むのでしょうか?

人間が神になることはないと断言できます。それでは私たちの輪廻転生の

究極の目標をどこに見つければよいのでしょうか?次の2点を前提とせねば

なりません。1 人間は永久に人間としての転生を繰り返す。完全なる

無になることは物理の法則上ありえない。

2 人間が神に進化することはない。もちろん猿が人間に進化することはなく

もちろん人間が猿や他の動物に生まれ変わるなど絶対にありません。

禅定の持つ意義

ブッダサンガーでは正定が重要視されていたことは明白です。

そして原始仏典アーガマからブッダは弟子たちに瞑想法と禅定法の

両方を指導していたと推理できます。

瞑想法は8つのカリキュラムの内7つまでの生活を改善するという目的が

あるのですが、禅定は直接生活と関係がありません。

この禅定はブッダの時代の相当昔から知られていた手法で、目標は

梵我一如、私はこの呼び名があまり好きではないので、宇宙即我と

呼んでいます。梵我一如とは、宇宙創造神である梵天といったいとなると

いう意味です。私がこの呼び名を嫌うのはあたかも人間が神になれるのだと

誤解を与えかねないからです。もちろん私は宇宙=神という立場を

取っているので,、結果は宇宙即我でも同じですが、私はこの境地に付き

次のように考察しています。昔から先人たちはこの境地を求めて日々

禅定などの修行に励んでいたのだと思いますが、この境地は、

神と一体化すると言っても人間が神へと進化するわけではないという

基本的事実を認識せねばなりません。つまりこの境地は人間が人間で

あるままで、神と同じ立場を手に入れることが出来るのだと。

それは神との記憶の共有にほかなりません。つまりこの境地は宇宙が

無限に有している記憶を人間も共有できるというもので、この境地

こそが宇宙即我の正体なのです。禅定により得られる三昧の境地

その先には宇宙即我の境地が存在し、その宇宙環境は太古の宇宙に

存在します。生きている間にこの修行を積んだものにはこの理想郷まで

一気にたどり着く権利が与えられるのです。もちろんこの宇宙は、

4の宇宙のはるか無限のかなたに存在し、もちろんどこにたどり

着いたとしても、終点はありません。理想郷も又無限に存在するのです。

死に方に良し悪しは無い

行き過ぎた同情?

ここである問題を提起しておきましょう。

世の中には不幸な死に方をする人が大勢います。病気で死ぬ人

不慮の事故で死ぬ人、そのたびに周りの人たちはそのような人に

同情をします。同情そのものは命の尊さを知るための試練であり

決して悪いことではありません。しかし行き過ぎた同情は禁物です。

ライオンが動物を食べているのを見てかわいそうなその動物に

私も含めて表面的な同情をすることがあります。しかし良く考えてみると

人間はライオンよりももっとひどいことをしているはずです。

死は誰にでも平等に訪れるのですが、どうしても表面上の死に方そのものに

良し悪しがあるような錯覚に囚われます。しかしこの考え方も誤りであると指摘

しておきます。事故や病気で死んだ人には同情が集まります。

しかし同情するのは周りの人間で死んだ当の本人では決してないということ

を常に考えておくべきです。一番重要なポイントは死の直前には

何の痛みも苦しみも感じていないという事実です。この点は多くの臨死体験者

が証言しています。人間もあらゆる動物も死が確定した時点では

すでに意識が肉体を離れた霊体側に避難をしているのです。

周りで見ている人がどんなにその人が苦しんでいるように見えても

これは単なる宇宙が我々に命の大切さを訴えるためのパフォーマンス

にすぎないんです。だから人間はライオンに食べられる動物を見て

同情するように設計されているだけで、行き過ぎた同情はこのような

宇宙の教えを理解したならば、せずにすむわけです。

経験上行き過ぎた死者への同情は悪い結果を引き寄せる場合が

多いのです。死んだ人に同情したために憑依現象に苦しむ人の例は

枚挙にいとまがありません。

もっと重要なポイントはこの日記をごらんの方は死が単にさらなる

向上の通過点であり、決して残酷な運命ではないということを良く理解

されているはずです。もちろん愛する人と別れるのは誰しも辛い事であるのは

認めます。しかし強いきずなが愛する人同士をまためぐり合わせるのです。

私たちは人生で出会う人全てがこの記憶領域によりその出会いを

仕組まれているということに気づいてはいないだけの話なのです。

物質と空間の関係

ドーナツの穴

ここで少し話題が変わります。以前お話したドーナツの穴の話です。

ドーナツの穴はドーナツが食べられてなくなると同時消滅します。

この件から空間と物質が典型的な色即是空の関係にあるのだと

考えることが出来ます。

私は別次元空間の中に物質が誕生するのでなく、物質と空間が同時に

作成されるのだと考えております。つまり物質と空間が等価であるという

考え方です。光の速度が変化するとその光の速度とその次元に存在する

全物質の質量と等価の別次元空間が誕生するのです。

この件については物理学者から認めてもらうつもりなどありません。

おそらく多くの人が荒唐無稽と笑うでしょう。この考え方、最初から

物質と空間が一対一になっていて、物質が消滅すると空間も消滅し

空間が消滅すると物質も存在できなくなるという相互依存的関係で

幽体離脱体験にこれをあてはめると、意識が霊体を立ち上げると

その質量(物質の作成に使われた光の速度の総和)の別次元空間が

同時に誕生するのだと考えております。そして霊子ドームの広さが

毎回変化するのは霊子ドームの広がりが、霊体に対する空間の広がりを

示しているものと考えられます。言い換えると質量の大きな霊を立ち上げると

その分空間が広くなり、質量が小さいと空間も狭くなる結果となります。

つまり空間が存在する場所には必ず物質が存在するのだと断定できます。

そして霊子ドームは、どの宇宙からも切り離された空間に位置し、

その性質は別次元宇宙をつなぐワームホールの役割を果たしていると

推理できます。私の霊体は最初から存在していた別次元空間に入り込むと

その宇宙の空間を霊体の分だけ広げる結果となります。もちろん

宇宙全体からみれば、大海に小石を投げ込んだようなもので目に見える

ほどではありません。

私たちの住む宇宙もそこに存在する光と物質の量だけ空間が広がっている

と推理しており、もし宇宙に地球だけが存在していたなら、私が離脱後に

体験する霊子ドームのような狭い空間が存在することになります。


私が見た別次元宇宙

私が離脱中に見た別次元の宇宙は我々の地球と大変そっくりでした。

おそらく私が常に出入りしている宇宙は我々のマザーに相当する

宇宙ではないかと推理しています。このマザーがチャイルドの宇宙と

似ているのはごく当たり前で、我々が住んでいる宇宙はマザーのコピー

なのです。離脱の体験者は実に不思議な体験をします。それは自分が

宇宙のどこにいるのかを距離の遠近で捉えることが出来るからです。

近くにいるあるいはここは間違いなくこの世だと感じたときはその次元は

この世とかなり近い次元であり、遠くに来ていると感じたときは、次元の離れた

宇宙に来ているのだと霊体が体感するのです。

私が離脱中に玄関の外の別次元宇宙に居るときはそこは地球とそっくりで

ありながら、なぜか随分と遠くに来ているのだと認識するのです。

そこは地球とまるでそっくりな場所であるのに、私は本質的に自分が

今居る場所が別の宇宙であると、認識することができるのです。

繰り返される間違い

幽体離脱への誤解

幽体離脱に対する誤解はその体験者もみずから誤解をしている部分が

多いといえます。上記説明のとおり別次元宇宙はどこも等質な4次元空間で

構成されその内容はきわめてそっくりで、どこの宇宙も見分けが付きません。

特にコピー領域は、私たちの宇宙とわずかに次元がずれた場所に存在するため

多くの体験者(もちろん私も)ここはこの世であると誤解をしています。

このような誤解はやむをえない部分もあるのですが。離脱のメカニズムを

しっかりと認識すればせずにすむのです。繰り返し誤解に基づく次のような

誤った実験が行われるのです。まことに残念です。

幽体離脱を自力で起こせる人が隣の部屋に置いてある物を読み取れるか

という実験で随分古くから繰り返し行われているようです。

これは離脱が同一の次元内で起きているのだという誤解に基づくもので

別次元とはお互いに見えないから別次元なのです。そこがたとえそっくりで

あったとしても、この世からあの世が見えないのと同様、離脱中の人間から

この世の物質が見えるはずがないのです。もし離脱が同一次元内で

起きているなら、話はもっと簡単なのです。なぜなら離脱した霊体が周りの

人から肉眼で見えるはずだから、こんな実験は最初から誤解に基づく

ナンセンスな実験であると断言できます。

神が人間と交わした契約とは

私の考え方におそらくキリスト教徒の方から次のような

反論が出ることを予想しています。その反論とは人間は神が創った

ものだから神であれば人間を消してしまうことが出来るという、当然の

反論です。しかしこのような件についても深い考察をすれば、人間を

完全なる無に帰することは神にさえできないと結論が出ます。

もしここに極悪非道な人間がいて神様が見るに見かねて、その人間を

永久に抹殺したとします。すると皆、次のような疑問を抱くはずです。

その極悪非道な人間は神様あなたが作ったのではないか?

これは当然の疑問です。神様は自分の作った人間という存在に全責任を

負うのです。その責任とは実は半端なものではないのです。

再び色即是空

実は深い考察により、神と人間は色即是空の関係であると気づきます。

神の肉体は、始まりがなく終着点があります。つまり始まりがなく終わりが

あるものです。この件は聖書にも次のように表現がなされています。

「私は生まれたことはないが死んだことはある」と。

人間の肉体は神が創造したもので始まりがありますが、永遠に輪廻転生を

繰り返す終わりのない存在です。どちらも無限であるという立場は

対等ですが、肉体の構図が逆となっています。

人間は「死んだことはないが生まれたことはある」という神とは逆の存在です。

結果として神の肉体は過去から未来へ人間は未来から過去へ向かい

色即是空の宇宙の法則どおりに設計されていて、どちらか片方の消滅は

両方の同時消滅を意味します。分かりやすく言えば神は人間創造に

あたり自分の命を担保として差し出しているのだと、考えることができます。

たった一人の人間の消滅は宇宙全体の消滅につながるという実に恐ろしい

契約。これが人間と神が交わした最初で永遠の契約なのです。

私たち人間は輪廻転生の永遠の旅の途中、ただ一人も見捨てられ

転生の枠外へ放り出されることはこの契約により絶対にないのです。

もう一つ重要なことはこの色即是空の法則においては常に色と空の

相反する二つの要素が対等な立場にあるということです。

神は最初から自分と全く同じ立場を人間に与えているのです。

人の記憶は神の記憶と融合する

宇宙はその記憶を別の宇宙の誕生に伝えます。人間もまた自分の人生を

別次元にコピーします。もちろん我々の人生の舞台となる宇宙は神の記憶

からなる、デジャブの宇宙です。舞台は神からの借り物であっても

そこで展開される人生は、自分の記憶領域が来世にコピーされる

という構図であり、まるで人の記憶は川の流れのように神の記憶である

宇宙へと注ぎ込み、その記憶は混ざり合いひとつとなります。

見方を変えると私たちが今見ている宇宙は人間と神の共同作品である

と考えられます。神が宇宙を創造し、その場を借りて人は人生という

自分の記憶を再現していることになるのです。

私たちは神が見ている夢の中で夢を見ている、「夢の又夢」のような

旅人なのです。
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