幽体離脱体験日記

24  結論

2004年3月27日の日記

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宇宙の真実

私がこの日記を書き始めた理由は、今までの死後世界観が

論理性に欠け、抽象的すぎるため、大半の人が信用しなく

なってしまったと考えたからです。そして従来誰も、理論的説明は

不可能と認定していた、神や、霊界について自分の幽体離脱体験を

もとにして、理論に基づいた説明を重ねてきたつもりです。

もちろん、私の意見が絶対正しいなどとは夢にも思ってません。

しかしながらこれらのことを、誰かが始めないといつまでも

空想上の霊界や神についての議論を続けることになります。

そして、私の日記を読まれた方であれば今までの常識的霊界観とは

かなり異質なものであるということが十分に理解されたことと思います。

尊敬する人物

私が死後世界について考えるとき最も尊敬する人物が2人います。

一人は、ゴータマ ブッダです。お釈迦様のことです。彼は今から

2500年前にインドのシャカ族の王子として生まれました。

出家した理由は、人類全員の苦しみからの救済です。

そして、結論らしきもの、<今では確認不能で当時の彼の考えが

正しく伝わっているかは疑問ですが>全ての欲望を捨て去り

輪廻転生の悪循環を断ち切るというものです。私は相手が自分の

尊敬する人物であっても意見に相違があるのなら、堂々と

反論すべきと考えております。人は皆対等のはずです。

輪廻転生は、宇宙の循環の法則、言い換えれば物理の法則

であり、ここから逃れることなど神にさえ出来ないはずです。

それと輪廻転生が地球上でだけ起こると想定すると、理論に

かなりの矛盾が出ます。現在の仏教の多くは霊の存在を

否定します。お経は生きている人間のために唱えるのだそうです。

霊界ぬきに輪廻転生論を主張すると、地球の誕生以前の

ことや、生まれ変わる人が何百年もの間、いったいどこで

お休みしているのでしょうか?

私たちは何のために生きるのでしょうか。欲望をすてるために

生きているのならば、なにも楽しくないはずです。私は人生

楽しければそれで十分そう信じてます。

ブッダの本心

私は彼があの世の存在を確信していたのではないかと、

ずっと考えてきました。彼の話の中に、梵天=宇宙創造神や

マーラ=悪魔などが出てくるからです。もちろん現在の経典の

大半はブッダの死後、数百年後に成立したものがほとんどで

阿含経典にのみ、彼の真意が見て取れます。

しかし、彼はあの世につき答えを避けたのです。有名な矢のたとえ

がそれで、私はこの件につき次の推理を持っています。

ブッダの苦集滅道は、実践の方法である八正道または七覚支

<どちらもほぼ同じカリキュラムより成る>

と彼の基本理念である、存在の法則、十二縁起により構成されます。

十二縁起では、全ての存在が12種類の要素により構成され

全てが相互依存的に成立しその内一つでも崩れると全ての

要素がばらばらに崩壊し、存在を非存在に変えてしまうというものです。

彼があの世の説明を避けて通った理由はここにあると考えて

おります。この存在の法則は私が日記の中で何度も説明した

意識と肉体の関係などがこれと、等質のもので、もし、彼があの世

につき説明すると、意識だけの世界を説明することとなり、

彼の存在の法則はあの世では通用しなくなります。おそらく彼は、

これを嫌ったのだと思います。もちろん私が2500年前の人を

相手にあの世も物質的世界であり、この存在の法則が適用できる

などと説明しても誰も信じないでしょう。なぜなら、物質世界なら

目に見えるはずと全員から反論されるからです。私の日記は

こんな疑問からスタートしたのです。

心か肉体か

彼はいつも次のような議論をします。

心があなたか、肉体があなたかと聞かれ、心が私であると答える

人より肉体が私であると答える人の方が幾分かましであると。

この質問に対し私は、肉体こそ私であると答えます。

私とは、私という個性を指摘して使う言葉だからです。

宇宙の存在は常に逆の性質の2つの要素より構成されます。

意識と肉体は、永久に不変のものと常に変化するもの。また

個性を持たぬものと個性を持つものの相反する性質の相互依存的

存在です。しかし、あきらかに、私とあなたという個性は肉体側に

のみ原因があり、意識にはそれがありません。猫や犬までも

私たちの意識と同じ意識により構成され、猫と犬の区別は肉体

がなければ区別できないからです。自他を見分ける作用は、

その個性の源泉である、肉体を見分けていることになります。

世界で一番有名な救世主

もう一人は、約2000年前のイエス キリストです。

私は幼稚園のときから、片時も聖書をはなさずいつもカバンの

中にいれて持ち運んでました。しかしキリスト教徒には

なりませんでした。彼は「金持ちが天国に入るのはラクダが

針の穴をくぐるより難しい」と言うからです。私たち人間の中で

誰が金持ちになりたくないと言うでしょうか?

ラクダが針の穴をくぐれないことぐらい分かります。

そうであれば、誰もいけないとはっきり言ってほしいのです。

天国とは、以前説明した通り、イエス キリストのように自分の

命を他人に捧げる、そんな人たちの集まりです。にもかかわらず、

大半の人が天国に行けば楽ができると誤解しています。

もちろん宗教には重要な価値があります。それは救いです。

人類を苦しみから救い出す手立てはこれ以外にないように

見えるからです。

新宗教の考え方

新宗教の大半は現在のところ、上記の輪廻転生論と霊界を

結びつけた和洋折衷案です。輪廻転生論を霊界の存在でカバー

しようというもので、ここでは人間は霊界と地球を往来するという

特殊パターンの輪廻転生論となります。しかし、ここでもおそらくは

霊界を意識のみの世界と考え、本来霊界で永遠に生きるはずの

霊がどんな理由で、あるいはどのようなプロセスで地球に戻るのか

という点は説明不要とみなされていると考えられ、やはり問題は

残るはずです。私は霊界を、物質的、別次元宇宙の無限連鎖と

捉えており、全てを理論で説明することを試みたのです。

霊界が意識からだけ成る仮の宇宙と定義するのなら、私は

霊界が存在しないと断言するしかありません。理論で説明

できなければ、非存在と考えるからです。


私の結論

神や救世主にすがっていれば、本当に皆救われるのでしょうか?。

私の答えはノーです。そこで私は、このことにつき私がベストと

考える道を提案したいと思います。

2つに考えを分けました。私たちの人生と死後の世界についてです。

なぜならば、今までの宗教的考え方は、死後の世界にのみ重点を

おいていると思えるからです。それで、本当に良い人生が送れるのか?

との疑問を抱くからです。

人生について

基本的に人生は楽しければそれで十分、そのように考えます。

人生を有意義に過ごす上で、本来死後の世界の有る無しは

関係ないはずです。神が死後の世界を秘密にするのは、全員

死んだら全てが終わり、そのような気持ちで人生を楽しめという

神からの要請であると考えるのです。しかし、そこで死後の世界を

知った上で、死後世界を信じない人と同じように全力で生きる

ことが出来るならば、こんな素敵なことはありません。

なぜならば、私の日記をご覧の方々は人生の記憶がどんな意味を

持つのか良くご存知と思うからです。私たちの人生が楽しいもので

あるべきなのは、死後この記憶しか残らず、次に進むべき道は

この記憶によりほとんどが決定されるからです。言い換えれば

私たちは神に裁かれるのでなく、自分の記憶領域により裁かれる

のです。もし他人に危害を加えた記憶が私たちに襲い掛かれば

結果がいかに恐ろしいものかが分かるはずです。しかし人は皆

そこまで愚かではないはずです。自分の思うように行動すれば

必ず正しい行動ができるはずです。

欲望を全て断ち切ろうとすると、人生そのものが全く無意味に

見えてきます。上記のような原則の中で、自分が欲望を持つ

のであれば、人生がより楽しくなるはずだからです。

死後世界への旅立ち

私の冥界の説明のところで皆自由に行き先を決めてよいと

説明しました。私は実はここで有る特殊な案を持っているのです。

基本的に、自分の人生体験から出た本人の死後世界の

行き先は物理の法則の範囲内で自由です。ここに着目しました。

私は神にこう宣言するのです。自分の人生体験の中で、

禅定のなかで味わう喜びの境地、いわゆる三昧の境地が

一番素晴しかったので、次の世界では一生禅定を続けたいと。

ここで、再度ご注意申しあげたいのは神といえど意識を消去

してほしいとか、意識だけで生存したいとか物理の法則に

違反するようなことは絶対出来ないということです。

私が禅定という状態は肉体を表現手段として使わないことです。

おそらくその世界とは神の太古の姿すなわち最も古い宇宙に

該当すると考えるのです。そしてこの要求を認めてもらうには

ある条件がつきます。その条件とは生きている間に最低でも

一度はこの禅定の最高の境地いわゆる宇宙即我を体験しておく

必要があると考えているのです。なぜかというと、何も考えず

何もしないと宣言した場合おそらく記憶の消去が免除されると

考えるからです。

なぜなら、何もしなければそれ以上、人が罪を犯すこともなくなり

記憶消去という、時効の概念の適用が除外されるはずだからです。

そして人生の記録は宇宙に唯一つの意識が

保存しており、この記憶は個人的なものから神の記憶にいたるまで

全てが一つになっていると想定するのです。ここで始めて

宇宙全体の記憶をその人が神と共有できると考えており、これが

宇宙即我の境地の正体と認識しているからです。

しかしこの太古の神の宇宙に行くことが許されたとしても

肉体を持つ限りにおいてやがては死を迎えるのです。

その時再び冥界で自分の今後の進路に付き、決断を求められる

はずです。この考え方は、仏教などでいうところの、ネルバーニャ

静かなる世界というそうで、涅槃とも言われます。しかしこれらの

基本理念は輪廻転生からの脱却であり、永久に不動のもので

あたかも意識だけの世界という印象しか受けません。私は

あくまでも人間が永久に人間であり続けるという法則に従う上での

判断をしており、両者が似て非なるものであることを再度

ご確認いただきたいのです。

しかし、これはあくまでも私の意見であり、人により最先端まで

進化した神の姿、すなわち無償の愛を他人に供給し続ける

という別の道を選ぶ人もいて当然です。このような人は

まよわず天国という選択肢を取ると思うので、私はそのような人を

大変尊敬します。私には出来ない、そう思うからです。

救世主は実在しない

過去にも救世主と呼ばれる方がいたとも思うのですが、人類全員を

救済することは、ほんとうに可能でしょうか?

私はそれを絶対に無理と断言します。そのような行為は宇宙の

法則に違反するからです。なぜなら、神は人類に永遠の自由を

約束するからです。皆がどう考え、どこに行こうが自由なはずです。

人類の救済とは全員の自由を奪うことになるからです。

従って、神でさえ理論的にそのようなことが出来ないことが

分かります。神でさえ試みないことを人間が試して成功するでしょうか。

自由が許される以上全員が違う道を選ぶのが当然だからです。

次のページにて般若心経の解説ならびに長いことわたしの日記を

見ていただいた方々へのお礼を述べております。ぜひご覧ください。


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