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幽体離脱体験日記
多くの方からメールをいただきました。また掲示板にも私への
ご意見を多数頂いております。その中で、最も数多く頂いた
質問と批判についてここで答えておきたい。
まず永遠に生きるということが苦痛でとても耐えられない
との感想が多く寄せられた。私の基本理念に対する当然の
反応と思う。良く考えれば分かるはずだが、今の人生が楽しく
ないのに、だれも来世が楽しいなどとは思わないだろう。
私は日記の締めくくりで、人生は楽しくあるべきと結論付けたのは
そのためだ。現世が楽しくなければ永遠が楽しくないというのは
普通の話で、だから今の人生を大切に生きる必要があるわけです。
来世があるから死んでも問題など無いとの考えは矛盾した考えです。
今を生きるは、永遠を生きることです。
神からの要請をもう一度思い起こしてほしい。そして私は人生を
大いに楽しむための手法として禅定法を後ほどお伝えします。
今一つは私がまったくの無知であるという批判だ。もっと勉強すべき
との何度も同じ批判が繰り返し出るので、ここで宣言しておきたい。
「私は無知である」 自分で宣言するのだから間違いない。
私は仏教やその他の専門家ではない。
日記の趣旨をもう一度確認しておきたい。私の理論は私独自の
考えです。これは幽体離脱体験とそれに基づく瞑想法による
新たな理論展開である。この日記のどこが仏教の解説書に
見えるだろうか。今まで誰も言ってないことばかりを書いた
つもりでむしろそれらの古い考えを覆す試みのはずです。
般若心経の解説で、人間の価値が知識により決まる
のではないと強調したはずだ。にもかかわらず、もっと本を読め
という意見が、続出する。その人たちは私よりも知識が豊富だと
主張するのだろうが、これも宣言しておきたい。他人の意見につき
私にはほとんど知識がない。それはこの文章をお読みの方
全員に私が皆様方より劣った貧弱な知識しか持たないと
このことも宣言しておきます。私が重要視するのはいつも
本で読んだ他人の意見ではなく。般若すなわち内在する知恵
を使い、自分で考えることです。これこそが日記の趣旨であり
私たちに脳みそがついている理由なのです。
私は何度も瞑想より禅定を重視すると発言してきた。
その理由は禅定法の説明で明らかにしたい。
そして瞑想より禅定の方が数段高度で難しい。私は瞑想法を
ほとんど問題解決の手段として用いている。これは禅問答などと
共通する考え方だ。禅問答では「柱の中に隠れてみよ」とか
一見無理な設問が用意される。このような答えは本やインターネット
で調べることは不可能です。それゆえに自分で考えるがテーマとなり
その答えは自分独自のものつまりは独創性が問われます。
これこそが般若波羅蜜多なのです。つまり禅問答とは人間本来
がもつ内在された知恵を開花させる手法であるといえます。
瞑想に決まりは無いと思う。横になっていても電車の中でも
どこでもできる。あまり静かでなくても可能だ。
この辺が禅定と違うところで。電車の中で禅定が可能な人は
達人と呼ぶべきだ。基本姿勢は禅定と同じ、足は私は
普通のあぐらです。以前かっこつけて、結跏趺坐などやったら
とたんに足を痛めた。1時間の禅定に体重がきつかったと
思う。しりの下には座布団(できたら高さが調整できるものを)
敷いて姿勢を安定させる。ただし背筋を伸ばしてほしい。
これも背骨に負担がかからぬ配慮です。
禅定は少し目を開けて行うが、瞑想は完全に目を閉じて行う。
一つの考えに集中するため、眠ってしまう心配がないからだ。
もちろん眠ってしまっても問題ない。リラックスして始めないと
うまくいかないからだ。禅寺で修行をするわけではないので、
精神棒でたたかれる心配もない。
幻覚や夢は原理的には、E=MC二乗つまり意識によるエネルギーの
物質化現象と日記でも解説したのだが、この体験自体は神秘的で
神が宇宙を創造したのと同じ原理によるもので、人間が神の
子である証明で貴重な体験とは思うが、経験上、幻覚そのものに
意味はないと思われるので、これにこだわると上達しない。
おそらく大半の人が半年くらいで一度は体験するだろう。
そしてこれを体験した人はおそらく感動のあまり夜も眠れなく
なるはず。しかしこれらを体験できずとも問題はまるでない。
瞑想や禅定には目的が違うところにあると指摘しておきたい。
もしこの体験だけをもとめて瞑想を始めるつもりなら、やめておいた
方が無難だ。精神に異常をきたすという報告が多数みられるので
ご注意もうしあげたい。
また涙が止まらなくなるとかも何度か体験したが、これは脳が
正常に機能している証拠で何の問題もない。
私の推理では、2500年前のブッダの時代にはインターネットは
普及してなかったと考える。ではなぜブッダを偉大と賞賛するのか?
あきらかに彼よりは私たちの方が知識が豊富だ。
まさかブッダにおまえは無知だ。もっと物理やキリスト教なども
勉強しなさいとは誰も言わないと思う。そんな非難は全て
酔っ払いのおやじにのみ向けられる。これから述べる手法は
おそらくブッダが問題解決手法として、日常用いた手法と変わらぬ
と思う。偉大な人物とはいえ、同じ人間だ。脳の構造まで
違うはずないからだ。ただし悟りとかそんな大げさなものでは
なくて、誰もが普通にできることなので、再度強調しておきたい。
瞑想とかいいう言い方が大げさに聞こえるからだ。
私たちは文明が発達したために、このような普通の能力に
頼らなくなっただけで、少なくとも、ウインドウズXPよりは
人間の脳のほうが幾分か優れてはいるようなので、考え違いを
しないでいただきたい。
具体的手法の説明に入る。まず静かに目を閉じて自分に
このように言い聞かせる。「今、自分は全ての執着から離れて
自由の身となった」。これはあきらかに自己暗示だ。
そして数分間出来るだけ思考を沈める努力をする。しかしこれが
なかなか難しい。あまり長く目を閉じた状態で続けると眠ってしまう
ので、ある程度気持ちが安定したら次の動作に移る。
自分で前もって決めたお題に集中する。このお題できる限り
短く簡潔にまとめといてほしい。長文は長い間集中するのには
不向きだ。そして瞑想中はこのお題から外れてはならない。
このようなやり方は禅問答などで用いられる手法と共通すると
考えております。もちろんそれと同じくまったくへんてこな
お題でもかまわぬが、私はいつも実用的お題を採用する。
そして、例えばお題を饅頭ときめたら瞑想中はそこからは外れて
ならない。いつも中心に据えておく。そしてここから色んな
理論を展開するのだが、つねに饅頭を中心に理論展開する。
例えばここからカレーライスに考えを進めても中心すなわち
お題が饅頭であることが条件だ。そして次々理論を展開させ
その理論が矛盾するか検証しながら考えを進めて、矛盾を
見つけたらまた最初のお題に戻るを繰り返し行い、自分の求める
正解に徐々に近づけるという手法なのです。
もちろんこんな説明では誰も理解できぬと思うそこでこれから
瞑想中に実際私の脳がどんな作業を行うか、具体例を示したい。
しつこいようだが再度お願いしたい。私の話を聞けば理解できる
というのは誤った考えです。自分の頭で考えるが私の主張です。
これを読んだだけで理解したと誤解するなら本を読んで知識を
得たのと同じです。理解するとは意味が違います。
皆様も私と同じ手法により私の結論のどこかに矛盾点がないか
検証してほしい。それが瞑想法の基本です。
おそらくは私のお題、間違えてるとの反論はあまり出ないだろう。
しかし、元々意識なるものが存在するという前提で話を進めても
よいのか?という意見が少数派の中から出るだろう。
もちろん私始め、多くの人が自分には確かに意識があると
確信してるはずです。しかし誰でも一度は「意識は存在しないと
いう話をどこかで聞いたことがあるはずです。
この話ほとんどが仏教の思想と考える。ブッダが意識は
存在しないと断言したというのが根拠です。もしかしたら
本当にそう話したとも思えるふしもあるが、実際には意識が
存在しないには条件が付くのです。その条件とは「単独では」
という条件です。私がいつもこのような話をすると一部の人が
あなた、ブッダと会ったのかい?と聞くのですが、実は根拠が
あるのです。この意識に対するブッダの本当の考えを示すべく
次章でブッダの基本理念。十二縁起を紹介するつもりです。
そして人間を構成する要素、意識や肉体の関係に付き
彼はとことんこだわったのです。誤解した意見が多く見られます。
ブッダが何事にもこだわるなと発言したり、不説つまり自分は
説を持ってないを連発していたという誤った観測です。
この話本人がきいたら、ばかにするなと激怒するはずです。
皆様も私と同じ気持ちでともに考えてください。
まず、マントラを唱えます。「私は今全ての執着から離れ、
自由の身となった」。もちろんこれはおまじないではありません。
自己暗示であるということを強く認識してください。
1分ほどでお題を提示します。もちろん「意識は非物質」です。
これに3分ほど集中したらさっそく理論の展開に移ります。
注意してほしいのは、どこかで自分の理論展開に矛盾を見つけたら
基本のお題にすぐ戻ってください。
最初に、もし意識が単独で成立し、目の前に現れたら、どうなるか?
意識が体や、手足を持つだろうか?もちろんそれを認めると
意識は非物質とのお題に反します。もし何らかの姿、形を持てば
それは非物質とは呼びません。明らかな物質です。
次に私が幽体離脱体験で見た霊界の霊は私たちと同じ
肉体を持っていました。そこでまた考えてみたのです。彼らの
正体は本当に意識単独の存在なのか。(私はこの時点では
霊界=純粋なる精神の世界。つまり意識が単独で成立出来る
世界で物質的存在は何一つそこにはないと確信してました)
そこで私はもう一度お題に戻ります。「意識は非物質」
すると従来言われた霊界の概念どこかに間違いがあるのでは?
そう結論しました。どのように考えても意識そのものが姿を持つとは
考えられないのです。そこで人間の脳と意識との関係に考察を
進めます。従来の肯定派の基本路線、意識が脳を支配しているが
本当に正しいのか?という問題です。
つまりは意識が脳を支配するのなら意識が脳を離れても単独で
成立しそうだからです。しかしこの点はすぐ否定しました。
なぜなら第一に姿を持たぬ意識が自己を外部に表現できるのか
という単純な疑問です。それともし意識が単独成立可能ならば
肉体や脳は単なる飾りであるということで、無意味な存在という
結論に達したのです。最初から意識が人間と同じ機能を有する
のなら人間が肉体を持つという事実そのものまで怪しくなります。
そこでこのように考えてみたのです。意識と肉体この両者は
それぞれまったく別物で、違う機能を有しているのではと、
つまり脳も意識もたがいの機能を兼務できないとの考えです。
もしどちらもまったく同じ機能を有すると主張するとどちらか
片方は不要とみなすことができるからです。
そこから得られる結論は意識と肉体は2つ一組で初めて機能する
との考えです。いいかえると相互依存的存在ということです。
一旦お題を変える。皆様方も瞑想法により一緒に考えてほしい。
上記のお題は医学的見地すなわち、今度は意識の側でなく
脳の側から意識を考察したい。しかし、おそらく肯定論者の多くが
上記のお題を完全否定するはず。意識が脳を支配していると。
私は深い瞑想状態で次のような考察をしてみた。
宇宙のどこかに脳という装置以外で意識を発生させるものが
存在するのか?残念ながら、ないといういのが私の結論だ。
私は医者に負けたのです。医者の言うことはまったく正しい。
私はお題を変更した。「意識は脳以外では作れない」
再び理論的考察を開始した。脳がどんなプロセスで意識を
発生させるのか?おそらく医者はこの件については今のところ
回答できぬはず。つまり意識については解明されてないというのが
理由だろう。私は脳が意識を発生させるメカニズムに付き
つぎの推論を考えてみた。エネルギーあるいは科学物質を
脳が意識に変換しているという仮説を立てたのです。
エネルギーはいろんな装置を使い人間にも変換が可能です。
例えば、熱エネルギーを電気エネルギーに変えたり。
電気エネルギーを電波に変えたり。おそく脳はこのようなエネルギーの
変換装置ではないのか?というものです。たしかにそんな気もした。
しかしここから先、大きな矛盾点を見つけてしまう。
熱エネルギーを電気エネルギーに変換するとき、変換前と
変換後ではエネルギーの量は等価であるというのがエネルギー
保存の法則だ。つまり、1キロカロリーの熱を電気に変換しても
出来た電気も量は1キロカロリーのはずしかし、エネルギーを
意識に変換するとの考えなら意識も熱エネルギーと等価のはず
意識を計量出来るのか?この矛盾点解決不能に陥った。
もし意識の正体が、電気や熱などのエネルギーなら、私は
今、1キロカロリー怒ったとか1ワット悲しいとか、数値による
計量が可能なはず。しかし私たちが普通に考えて、意識を計量
できる存在とは考えてないはず。
つぎに化学物質を意識に変換できるか?との考察は脳の中で、
核融合反応がおき「E=MC二乗」による物質の変換が起きている
との考えに元づくものだがやはり出来上がった意識をエネルギーと
等価という説明が出来ぬ限り、矛盾は同じことだ。ただし混同
してほしくないのは、脳そのものが熱エネルギーや電気により
作動しているのだろうということだ。しかしこれは脳が作動する
原理を説明しているだけで意識の製造プロセスを説明している
わけではないということだ。
次に脳が完全なる無から意識を取り出していると考えてみた
つまり現代の医学、物理学では意識を取り扱えないので
いい加減な説明してもどうせ、ばれやしないと考えたのだ。
しかしいくらそうは言っても、意識は確かにあると考える。
あるというものを、無理に無いものから作り出せるという考えは
でたらめといわれてもしかたあるまい。つまり意識についてだけ
物理の法則は目をつぶれとはいえないだろう。無から有は
生じないが、私のモットーだ。ここで私はもう一つの点を指摘しておく。
上記のような考察を重ねるうちに、意識は他の何かを加工して
製造することができないのではないかという考えです。
そこで私は般若心経の一説を思い出した。
不生不滅 不垢不浄 不増不減
意識が永遠に意識であり続けるのであればこの説明納得がいく。
もし意識が他のもので代用できないなら能は意識を原料にして
意識を作るという考えだ。つまり意識は宇宙のどこにでも最初から
存在していて、人間の意識として脳が加工しているという結論だ。
ここにきて初めて意識の側からの考察と脳の側からの考察が
一致した。つまり意識が脳を支配するのでなく、意識と脳は
連携して機能を果たす。つまり相互依存的関係だというものです。
言い換えればどちらもまったく違う機能を有しておりどちらの
機能も重複してはいないということになる。
再びお題を変えて考察を進める。脳と意識の機能についてだ。
まず個性とはなにかについて考察した。人間の喜怒哀楽などの
感情や人格などは脳の働きであろう。脳を失えばこれらの全てを
失うはず。医者の説明がただしい。そもそも個性とは宇宙に
2つ以上存在すれば個性と呼べるはず。かりに人類全員で
1つの脳を共有できれば人間に個性はないはず。しかし不思議な
話だが脳の数は人間の数だけ存在している。どのように考えても
脳は個性を持つ存在だ。ならば意識の方は無個性であるとの
推理が成り立つ。上記の思考の繰り返しにより、意識そのものが
人間の喜怒哀楽を持つのであれば、意識が脳を支配するが
正しく、また単独成立も可能のはず。再び命題に反してしまうのです。
意識が個性を持たないとは、どのような存在か?
私は宇宙に2つ以上あればそれを個性と呼ぶ。すると宇宙に
一つしかあってはならないが、非個性という結論となる。
私たち人間の存在を影で支える意識とはどんな存在か?
意識は宇宙に一つしかない。しかも個性は持たない。
そこからは永遠に変化しないもの、完全なる存在が浮かんでくる。
(もちろんこの意識なる存在は神とは全く別物だ)
意識は感情や個性を持たぬゆえに完全なる存在であるといえる。
脳は個性を持つゆえ間違いを犯すのです。
この意識に付き完全なる認識はかなり難しいと思う。
しかし上記の思考の積み重ねにより意識は数学的存在
すなわち宇宙に一つしかない計算機能と結論付けたのです。
この意識を般若心経解説では空と翻訳しているので日記を
参照してほしい、「最後の日記」です。
これで私の説明は終わりです。再度お願いする。自分で考えて
もらいたい。その結果意識について別の答えが出ても何の
不思議もない。その方は自分の意識に関する考察を堂々と
発表してほしいと切に願うのです。
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