幽体離脱体験日記

3 禅定法

2004年5月8日

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はじめに

禅定法をお伝えするにあたりこの人物の名前をはずすわけには

いかないだろう。今から2500年前のゴータマブッダその人です。

彼は生老病死の苦から逃れる手法としてある修行法を提示して

おります。それが八正道の教えです。もう一つ彼の基本理念、

存在の法則、十二縁起も説明の必要があります。

そしておそらく彼がピパラーの木の下で、悟りを開いたという

その内容がこの縁起の法則であったことが推測されます。

なぜならば、王子であるブッダの警護役としてついてきた

弟子たちと分かれた後に悟りを開きその後その弟子たちと

再会したときに最初に説法したのが、この十二縁起と言われて

いるからです。世に言う初転法輪です。

まず、これらの説明から始めます。

八正道

正見  正思  正語  正業  正命  正進  正念  正定

この八つですが注目すべきは、正見が一番目で、正定が

八番目ということです。その理由は、正見を彼は最重視したのです。

正定についてはおそらく彼らが毎日禅定ばかりしているという

誤解を防ぐためと考えております。しかし彼の懸念は

残念なことに的中したようです。意外に思われるでしょうが

7項目までもが日常生活関連です。正見とは正しいものの見方

つまり正しい見解を持つということです。しかしこれはほとんど

存在とは何か?についての正しい見解という意味なのです。

彼は自分の縁起の法則に徹底してこだわり続けたのです。

つまり彼は何を聞かれてもこの法則でしか説明しようとしなかった

ということが原始仏典アーガマから見て取れるのです。

しかしこのことが後世でとんでもない誤解を招くのです。

正命などは規則正しい生活をしなさいといってるわけで、

仏教に興味のない方は少し驚くでしょう。つまり彼は日常を

どうすごすかということに時間を費やして説明していたことに

なります。禅定はブッダの発明品ではありませんが、おそらく

彼の禅定は三昧の先にある宇宙即我に到達していたと

推理しております。

縁起の法則

この法則は人間の存在に関する法則です。

私は日記の中で存在の法則では般若心経の色即是空を

採用したのですが、こちらは人間以外の宇宙の存在全てに

適用でき、便利な上に明らかに縁起の法則より優れているのです。

私はブッダの説が全部正しいとは最初から考えていないのです。


十二縁起解説

無明」 無智    (人間の苦について知らないこと)

」  意志

」  識別作用 (眼耳鼻舌身意の、6つの識別作用=表面意識)

名色」 五蘊   (人間を構成する要素)

六処」 認識   (眼耳鼻舌身意の、6つの認識)

」  接触   (眼耳鼻舌身意の、6つの接触)

」  感覚   (眼耳鼻舌身意の、6つの感覚)

」  渇愛   (主に物質に対する執着)

」  取著   (執着とほぼ同義で主に非物質に対するもの)

」  存在



老死


この十二縁起はおとなりの項目が全て相互依存的存在とされており

たとえば無明がなくなると行がなくなるという具合に連鎖的に

消滅する仕組みとなっている。言い換えれば12の要素の内

一つでも消滅すると12の要素は全て消滅し存在が非存在に

変わるという仕掛けだ。ブッダは人間の生老病死などの苦の

原因を無明すなわち無智が原因と考えていたのです。

しかしこの十二縁起は一見方程式のように見えるが

これをブッダの遺言と考えているのです。おそらく後世において

自分の意見が正しく伝わらないことを予見しこの法則を残したのです。

いわば、2500年前のパソコンといえましょう。もちろん彼は

この法則を瞑想法により、思考をかさねていたと思われる。

インターネットで調べたのではないことだけは事実だ。

しかしこんなものが残っているのに、ブッダが意識は存在しない

などと発言する人がいるが、よく,この法則見てほしい。

人間の意識を細かく分析している。彼は自分でないと主張

するものを研究していたのだろうか?

上記の縁起の法則で意識を説明すれば、12の内我々が一般に

表面意識として認識するのは、「識」 「行」 「受」などがこれに

該当するが、それが存在する条件に「生」つまりは生きている

間だけと説明しているので、死んだら意識は消滅すると

言ってるわけだ。(そんなことわざわざブッダに聞かんでも

よさそうだが)しかしブッダが意識は存在しないと主張していた

という誤解は実際はブッダの特徴的言い回しが災いしているのです。

皆様方にも原始仏典アーガマがどんな雰囲気のものか

お伝えしたいと思う。そして誤解がどこから生まれたのか?

考えてみたい。



かようにわたしは聞いた。

ある時,世尊は、サーブァッティーのジェータ林なる

アナータピンディカの園にましました。

そのとき、一人の外道の遊行者、ヨッパラ、ヨッシーなるものが

世尊のいますところに到り、世尊を礼拝して、その傍らに座した。

ここで、ヨッパラ、ヨッシーは竹筒に入れていつも持ち歩いていた

酒を差し出しブッダに飲めと勧めます。ブッダはこの申し出を

丁重に断りました。

(これは当時、さかんに行われていた論争を、しかけに来たのでなく

友好的な話をしたいという意思表示なのです。)

傍らに座した、かの外道の遊行者は、世尊に申し上げた

ヨッパラ、ヨッシー
大徳(ブッダ)よ、世間では、意識、意識とさかんに議論されますが

意識とは存在するものでありましょうか?

それとも存在せぬものでありましょうか?

ブッダ
ヨッパラ、ヨッシーよ私は縁起の法により全てを説くのである。

何があるがゆえに、何があるのであろうか

また、何がないがゆえに何がないのだろうか。

何があるがゆえに意識があるのだろうか

ヨッパラ、ヨッシー
大徳よ、肉体があるがゆえに意識があるのです。

ブッダ
よきかな、ヨッパラ、ヨッシーよ

それでは何が無きがゆえに意識がないのであろうか

ヨッパラ、ヨッシー
大徳よ、肉体なきがゆえに意識がないのです

ブッダ
よきかな、ヨッパラ、ヨッシーよ

これあるがゆえにこれがあり、

これなきがゆえにこれなし

かようにあるがままに法を知るがよい

外道の遊行者、ヨッパラ,ヨッシーは歓喜してこういった。

ヨッパラ、ヨッシー
たとえば覆われたるを、あらわすがごとく

たとえば灯明をともして、目あるものは見よというがごとく

大徳はよく法を説きたもうた。


以上のごとく説明していたと思われる。もちろん2500年も前の

話が完全に正確に伝わっているのかは疑問だ。しかしながら

かの第一結集では弟子たちが、全員で生前のブッダの言葉を

間違いがないか、確認作業をしながら全員で暗記しただろう。

およそ当時の僧侶のもっぱらの仕事は、読よう、による聖典の

暗記だ。記憶力の悪い僧侶は、僧侶として役にたたないはず。

かなりの部分信頼は出来ると思う。しかし、意図的にブッダの

教えを捏造あるいは曲解したのであれば話は別だ。

歴史的にはそんな事実もあるかもしれないが原始仏典アーガマは

比較的信頼できるブッダの直説と考えてもよさそうだ。

しかし後世の誤解は上記のように彼があまりに縁起の法則に

こだわり、それによる説明しかしなかったからだと考えられる

意識は単独では成立しないという言い方をすれば誤解は

少なかったはず。

霊魂は存在するか?

今度はブッダにこの質問をぶつけてみよう。

まず霊魂とはなにかについて定義しよう。ひとにより解釈が

違う恐れがあるからです。私の日記の冒頭でこの霊魂とか

魂とかいう表現を一切使わぬと、お約束したのはこれが原因だ。

肉体と意識このいいかたならほぼ全員が同じ概念を持つと

考えたからです。霊魂が肉体を持つと解釈するのは、少数派

であると思う。おそらく多くの人の認識は、肉体などの実態を

持たぬ意識だけの単独存在というのが極、普通であると考える、

それでは縁起の法則にこれをあてはめよう。

意識は上記でも説明したように、主に、「識」や「行」の部分だ

霊魂が存在するか、を確認したいのだが、これらの意識に関する

説明部分が肉体的要素を含む「名色」なしでは絶対に単独

成立しないというのがブッダの基本理念だ。つまりブッダは

「霊魂が存在するか?」の問いに絶対存在しない以外の答えを

出すはずないのだ。宇宙のどこを探しても霊魂なるものは

存在しないと断定するはず。よく見てほしいのは意識のように

条件付で成立とは表現できないことになるということ。

したがつてこれを否定も肯定もしないとの解釈は明らかな

誤りだと断言しておきましょう。

しかしここで皆様も私も一つの大きな疑問を抱くことになる。

それはブッダが縁起の法則により人間を構成する要素は死後

何も残らないと指摘してしまったからだ。つまり彼の

人間構成要素には一つも死後残るものは無く、輪廻転生の主体と

いわれるアルトマンは彼自身ないと否定するしか方法が無くなった

はずだ。しかし、彼は自分の説話の多くの部分を輪廻転生の

説明に費やしているのです。もちろんブッダの理念からこの

輪廻転生論を外すと、何も残りません。何が輪廻転生していると

いうのでしょうか。これには私独自の考えがありますので

次回の「輪廻転生」で詳しく解説するつもりです。


禅定法

おそらく古代の人類は、伝承的な思想の中に宇宙即我

の概念を全員が持っており、ほとんどの人が禅定を日課に

取り入れていたのではないかと推測しております。

私はいつも禅定を皆様方にお勧めするのですが、現代人の

多くがこれをお寺の僧侶のかたの専売特許のように思われている

のではないでしょうか。私は自分の人生を楽しく、より良く

すごすためには、このことが絶対に不可欠そう考えます。

ただし、だからと言っても日常生活はどうでもよいとは考えては

おりません。禅定が日常生活をより楽しくするための手段だからです。

姿勢について

前回の瞑想と違いかなりの制約が加わります。おそらく立ったまま

とかで禅定をする人はすでにブッダ、クラスの悟りを開いた達人でしょう。

姿勢は前回の説明のごとく、足は普通のあぐらでもかまいませんが

背筋だけは伸ばすように心がけてください。基本が悪いと、

後で体に不具合がでる恐れもあるので気をつけてください。

おしりの下には座布団でも敷いて高さを調節してください。

私はベッドの上と決めてますが、足に負担をかけない様に

いつも気をつけてます。できればいつも同じ時間同じ場所で

同じ方向を向いて訓練すれば上達も早いはずです。

瞑想とは違い目を半分だけ開けておこないます。薄目を開けて

という気持ちでよいでしょう。おそらく完全に目を閉じると

大半の人が心地よくお休みになるでしょう。

目を開けるのはそのためでほんのわずかで十分です。

視線は前方、やや下に落とします。

禅定の意義について

最初からうまくできる人などいません。練習によってのみ

何事も上達します。何も考えず何もなさずがこれほど難しいものかと

誰しもが驚くでしょう。コツは次々にわいてくる雑念を放置

しておくことです。人間は普通の状態でいつもなんらかの思考を

繰り返しています。これはもう癖であり、そう簡単に是正は出来ません。

間違えても禅定で悟りを開こうとか三昧の境地を早く味わいたいとか

求めないことです。何かを求めて行う禅定は邪道です。ただひたすらに

何も考えないそれだけで良いのです。私が禅定をお勧めするのは

生きることが楽しいことだと実感してもらうためです。

そして楽しく生きようではありませんか。宇宙即我の境地も

こちらから求めなければいつか向こうからやってくると私は

信じております。それがどれだけ素晴らしいことか用意に想像が

できます。しばらく続けて人間の心がここまで平和になるのか

ということを実感できればもう上級者です。何事もあせらずに

時間をかけて行きましょう。

今が楽しければそれで何もいらないはずです。今を楽しく生きるとは

永遠を生きることにつながります。

今日はこの辺で、また来週お会いしましょう。

次回は輪廻転生の本質「アルトマン」についてお話します



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