幽体離脱体験日記

4 輪廻転生 アルトマンの実在

2004年5月15日

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はじめに

日記の中で説明した輪廻転生に付きさらに詳しく解説いたします

まず最初に従来の死後世界観、とりわけ宗教的見地からの

死後世界をそれぞれ比較してそのどこが優れていてどの部分に

誤りがあるのかにつき皆様とともに考察を進めたいと思います。

仏教とキリスト教

キリスト教は一神教だが、唯一絶対神と人間との間にメシア

すなわちキリストが介在している。この点を除けば、他の一神教

と同じく神を主体とした教義であると私は考えております。

これは宇宙創造神にのみ寄りすがるという一般的宗教の

考え方と共通する概念と見受けられますが、あくまでも

神が主体で人間はその下に位置し、隷属するとまではいかずとも

私の考えのように人間と神を対等で並列的には位置づけてない

ことだけは明白であると考えられます。

それでは仏教における神に対する概念とはどんなものだろうか。

仏教では宇宙創造神を梵天と呼びます。ブッダの説話にも

何度となく梵天という言葉があらわれ、彼自身は宇宙創造神の

存在を認めていたものと考えられます。しかしながら、他の

多くの宗教と大きく違うのは、神の存在を教義の中心には

据えていないということが指摘出来ます。ブッダは、晩年

自帰依、法帰依という言葉を多用していたようです。つまり

自分と真理のみを心の拠り所とせよということで、どこにも

神に頼れという教えは出てきません。いい伝によると

ピパラーの木の下で悟りを開いたブッダは衆生があまりにも

おろかで自分の悟りの内容を伝えることができない、だから

自分はこの幸せの気持ちのまま死を迎えようと、食物を

全て絶つと決意したのです。そこに梵天、宇宙創造神が

現れて、ブッダにひざまずき、こう懇願するのです。

「なんじ、法を説きたまえ」。とても、にわかには信じがたい話

だと思う。どこの宗教に神が人間にひざまずくなどという

宗教が存在するだろうか。私はこの意味仏教が今現在は

宗教の範疇に属するものとしても、ブッダの教えはどこにも

神にすがれという言葉が出てこない以上、むしろ宗教というより

人間哲学とでも呼んだほうがふさわしいと思う。おそらく、

ブッダの神に対する認識は、私の認識と共通する点が

多いのではないかと考えております。

霊界論と輪廻転生論

おそらくこの両者相容れない思想であると多くの人が認識

していると思う。私は仏教徒でもキリスト教徒でもないので、

彼らの真意は読み取れないが、推測ではおそらく仏教徒は

霊界論を認めておらず、キリスト教徒は輪廻転生論を認めて

いないのだと思う。そこでこの両者を比較してみたい。

霊界論

キリスト教に限らず一神教の教義は大方、この霊界論を

採用するのだと思う。私たちの宇宙をあの世とこの世の

2種類に分けた考えだ。そしてあくまでもメインはあの世で

この世はその付属的存在と評価されているのではなかろうか?

人は皆死後あの世で永遠に生きるという考え方であり、

生前の行いにより死後その人が行く場所が決定される。

もちろんその決定権者は神であり、人は皆神の手に運命を

ゆだねられることになる。この考え方は仏教のカルマに似て

ないこともないが、私が一番疑問に思うのは、人が生まれる

前にはどこにいたのか説明がなされていない点だ。

もし、人間がこの世での生を受けたのが始まりというのなら

この部分は無から始まるという一般的な死後世界の否定論者と

意見が一致するように見える。もし生前の位置を、現代の

新興宗教的考え方で、あの世と指定すると今度はあの世で

永遠に生きるとの命題に反してしまう。もちろんあの世に対する

考え方も非物質の世界であり、意識単独成立の世界と

考えられているようです。

輪廻転生論

おそらくブッダの考えも今の仏教思想も共に、霊界論を

併用してはいないと考える。もちろんここで言う輪廻転生は

同じ地球上での生まれ変わりを意味すると思われ、私のように

別次元宇宙での輪廻転生を主張する仏教は聞いたことがない。

もちろん2500年も前にそんな概念はあるはずがない。

ここでは、地球上での輪廻転生が繰り返されるという結論しか

ありえないのだが、地球の誕生前とか滅亡後とかそこまでは

議論がなされてはいないはず。それと霊界を認めずに

輪廻転生論を主張すると、次に生まれ変わるまでに何百年もの

時間が経過しているとその間の説明が困難となる。

もちろん多くの人は死んですぐに生まれ変わるとは考えて

いないようだ。最も強調したいのは、輪廻転生論の立場を

主張すると、私達には必ず前世が存在することになり、

前世の私たちから見ると、今全員が来世に存在することとなる。

私たちは現実に今、死後の世界で生活しているのです。

ここではもう一つの問題が発生する。それは私たち全員が

前世の記憶を持たぬということです。多くの人が死後世界では

死者が生前の記憶を持つという誤った観測をしているはず。

つまり輪廻転生論とは、人は前世も来世も同じことを繰り返し

同じような生活をしているという主張なわけです。

しかし私たちの記憶に連続性がないことは明白で、死後世界の

否定論者は、これを最大の武器としているのです。もし

私たちが、死後自分を支える要素を何も残さず輪廻転生論を

それを前提として容認すれば、死後も自己以外の人間が

生死を繰りかえすのであり、これをもって輪廻転生というならば

死後世界の否定論者にも一般論的、輪廻転生論としてあっさり

受け入れられてしまうはずです。

否定論という宗教

この否定論者はかなり熱狂的で、ある意味宗教の信者よりも

強い信念により成り立っているように見える。この熱狂的

否定論信者の中に、ほかの宗教の信者が紛れ込むと

大変なことになる。おそらく出てけの大合唱に加えて石まで

投げつけられるだろう。これは人間のもつ本質的部分と

推測するのです。人は皆、死を恐れています。そこに誰かが

霊の話などを始めると本能的に脳が思考を停止するのです。

つまり自分の死を連想させる話はやめてほしいという意思表示が

表にでてしまうのです。そこで私たちが良く見る光景がいつも

繰り返されるのです。この「あの世ナイナイ教」は信念が固く

説得はほぼ不能です。もちろん彼らが考える死後世界とは

漠然としたもので(考えようとしないので当然だが)私のように

別次元宇宙とは考えてはおらず、霊魂すなわち意識が肉体を

持たぬ状態での単独成立の世界と考えていると思うのですが

不思議な話だが霊魂を認めないという点では意見が偶然

一致してしまう。神の否定論者などはもっとひどい。

私が人間のDNAは誰が書いた文字か?と質問するとそれは

人間よりも高度な知性体が書いたと主張するのです。それでは

その高度な知性体は誰が作ったのか?と聞くとさらに高度な

知性体が作ったというのです。このような人たちはおそらく

どこまでも神の存在を認めようとはせずに、ただひたすらに

神を否定するわけで、ここまでくれば立派な宗教と呼ぶべきだ。

神と死後世界はセットになっており、片方だけ認める人は

あまりいないとは思うが理由は上記の通り共通のものだ。

ブッダの時代背景

2500年前インドには階級制度がしかれていた。

バラモン。クシャトリア。バイシャ。スードラ.の4階級で

日本語に翻訳すれば、僧。士。商。奴。となる。実際は

この下に人間扱いさえされていない賎民階級というのがあった

らしい。バラモンは支配階級で、ある年齢に達すると出家して

野山で修行をするのがならわしであった。おそらくは

悟りを開き梵我一如の理想を追求したのだと思う。バラモン以外でも

出家者が大勢いたらしく、当時のインドでは出家修行者を

大切にしたので食べ物には困らぬはず。托鉢だけでなんとか

なったらしい。ブッダの身分はクシャトリアだ。彼らは出家して

どんな生活をしていたのだろうか?野山を住処とし、そまつな

衣装に身を包み(今にしてみればこれが、かっこよかったのだ)

朝早く起きて、民家に托鉢に行く。村人たちは喜んで食物を

与える。修行者は自分が旅の途中で見た話や真理について

自分の意見を述べて、お礼の代わりとする。当時何の娯楽施設

も無かったころ、これが村人の唯一の楽しみであっただろう。

托鉢を終えると街道に出て他の出家者と議論を戦わせるのです。

題材は私とは誰か、とか宇宙は有限か無限か、意識は存在するか、

死後も意識は継続するのでしょうか、などで今と少しも代わり映えが

しない。2500年も経ったのにですよ。もちろん今回の議題の

アルトマンすなわち輪廻転生の主体となるべきもの。真我とも

呼ばれるものがあるとかないとか。ただしここは重要な点だが

当時のインドにおいて輪廻転生は常識的に存在すると信じられて

おり、輪廻転生がないと主張する人はほとんどいなかったようだ。

もちろんブッダとて事情は同じだ。子供のころからベーダや

ウパニシャドなどを教え込まれており、これらが当時の議論の

中心であったはずです。夜になるとそれぞれの野宿場所に

戻り、大木を背にして目の前に焚き火をして瞑想や禅定による

三昧の境地を味わう(焚き火は獣におそわれぬ配慮で

当時実在した拝火教とは別物。後日ブッダはこの拝火教を

まるごと弟子にしてしまう)そして睡眠が一日のスケジュールだ。

ただしインドには雨季があり、この時だけは知り合いの

民家に泊めて貰っていたようで、集団で修行していた

ブッダサンガーもこの時だけは、ばらばらになったらしい。

ブッダの基本理念

次の説明の前に縁起の法則を再掲しておきたい。


無明」 無智    (人間の苦について知らないこと)

」  意志

」  識別作用 (眼耳鼻舌身意の、6つの識別作用=表面意識)

名色」 五蘊   (人間を構成する要素)

六処」 認識   (眼耳鼻舌身意の、6つの認識)

」  接触   (眼耳鼻舌身意の、6つの接触)

」  感覚   (眼耳鼻舌身意の、6つの感覚)

」  渇愛   (主に物質に対する執着)

」  取著   (執着とほぼ同義で主に非物質に対するもの)

」  存在



老死


ご覧のごとくこの中にはおよそ人間の肉体および精神に関する

殆どの項目が網羅されている。そして死後、私たち人間の

構成要素は全部消滅するという考えで、論戦において彼は常に

アルトマンは存在しないという立場を貫いている。



アルトマンを次のように解釈するとどうなるのか?

アルトマンは「霊魂」 「自我」 「人格」 「身体」 などである。

このように考えた場合はブッダと全く逆の見解が出来上がる。

つまり人間を構成する肉体的、精神的要素の全部が来世に

持ち越されるという意見であり私たち全員が前世の記憶を

持たぬ以上このような考え方がおかしいことにはすぐに気づく

はずです。もちろん霊魂という考え方はブッダの思想には

まったく入っていないことは前回の説明どおりです。

当時ブッダは論戦においては負け知らずであったようで、

次々と弟子を増やし時には一つの教団丸ごと自分に帰依させる

などの離れ業もやってのけたりブッダサンガーは巨大化

していくのです。なぜ彼は論戦に強いのか?次に具体例を

示したい。当時の論戦の模様をライブでお届けしよう。

ブッダがなぜ強かったか理由を知るためです。

今回論戦に挑戦するのはあの外道の遊行者、ヨッパラ、ヨッシー

です。

外道とはブッダサンガーに属さぬ、よそもの。遊行者とは

旅をしながら修行をしている人という意味です。彼は今回の

論戦に自信満々のようです。あの有名なゴータマ、ブッダ

(もちろんこれは芸名で、本名はゴータマ、シッタルダー)

を論戦でギャフンと言わせようと酒もやめてこの日に

備えたのです。


ヨッパラ、ヨッシー

大徳よあなたは毎日生まれ変わり死に変わりと何度も説法

されているようだが、一体、私たちの何が生まれ変わると

いうのでしょうか?

ブッダ

ヨッパラ、ヨッシーよそのような問いは私には適当ではない

私には何があるがゆえに生死があるのかと問うがよかろう

無明あるがゆえに行があり、行があるがゆえに識があり

(以下省略) 有あるがゆえに生死があるのである

これが苦の拠って成るところというのである。

それでは何がないがゆえに苦が滅するのであろうか

無明なきがゆえに行がなく、行なきがゆえに識がなく

(以下省略) 有無きによりて生死がないのである。

これが苦の拠って滅するところである

ヨッパラ、ヨッシー

されども大徳よ、生まれ変わるものがなにもないのに

なぜそれが生まれ変わりと呼べるのでありましょうか。

ブッダ

ヨッパラ、ヨシーよ、あなたの何が生まれ変わるというのか?

あなたの肉体か?心か?それともその他のものなので

あろうか?私に示しなさい。

ヨッパラ、ヨッシー

、、、、、、、、、、、、(以下無言)

上記のやり取りでブッダは、何が生まれ変わるのか?との

質問に対し、何があるがゆえにと議題をすり替えている。

これが常套手段なのだが、実は次に恐ろしい反撃が

待ち構えているのです。つまりアルトマンを最低一つ提示

しろと相手に要求するのです。

(どこかの掲示板に、代替案を示せと、しつこくからんでくる

酔っ払いのおやじがいるらしいが。)

当時の論戦ではこのように相手の質問に答えられない

時点で負けが宣告されたようです。しかしこの論戦は最初から

ブッダの勝ちが見えているわけで、アルトマンなど提示できる

はずはないと、たかをくくってるのです。そして現実にそれを

提示できる人はひとりもいなかったと思われます。そうであれば

アルトマンはないと主張するブッダが負けるはずありません。

おそらく人間の構成要素全て提示しても、全部ブッダに論破

されるでしょう。私たちが前世の記憶を持たぬことが有利に

働くのです。

ブッダの輪廻転生論

上記のように見てみるとブッダが何を考えていたのかが

良く分からなくなるばかりです。ブッダ本人は輪廻転生を

個人的体験と考えてなかったのでしょうか?疑問が募ります。

私は彼が輪廻転生を個人的体験と考えていたと断言します。

それはなぜでしょうか。縁起の法則を良く見てほしい。

これは無明を滅することにより、生死すなわち輪廻転生からの

脱出を図るという、修行法を提示するものであり、解脱法と

解釈が出来る。もし彼が輪廻転生を個人的体験とは考えず

人類の一般的それであると解釈してしまうと彼の解脱法は

全く無意味な存在となるのです。言い換えれば、人間の死が

個人的体験の終了を意味するなら、その時点で自動的に解脱が

完了するはずです。つまりはブッダ本人の主張する解脱法や

修行法は、輪廻転生が最初から個人的体験でなければ

成立しないということになります。

彼が毎日のように「生まれ変わり死に変わり」を連発していた

のは事実です。その内容は次のようなものでした。

生まれ変わり死に変わりした間流した涙の量と海の水と

どちらが多いだろうか?と弟子に問いかけます。これに弟子たちが

口をそろえて涙の量の方が多いと答えるのです。この話

おそらく毎日のように繰り返されたものと思われ、ある時は

つめの上に乗せた土と、山の土とどちらが多いかとか、例えが

変わるだけで内容はいつも同じです。この同じパターンの繰り返しが

原始仏典の特徴であり、近年まで原始仏典が内容の程度が

低いものとして省みられなかった大きな原因と思われる。

信じがたい話だが、法華経などがブッダ滅後、数百年経って

作成されたお経であることに、学者が気づいてからそんなには

時間が経過してないのです。長い歴史がブッダの説を闇に

ほうむろうとしていたのです。

アルトマンの指摘

私はブッダの説に反対するものです。輪廻転生を個人的体験と

位置づけるためには、輪廻転生を繰り返す主体「アルトマン」の

指摘が不可欠と考えるからです。

私は日記の中でアルトマンを一つに絞り込みました。

その正体が「重力」です。 

アルトマン=重力

これをご覧になった方全員が私を狂人であると断言するでしょう。

人間の輪廻転生と重力とがなぜ関係があるのでしょうか?

これには詳しい説明が必要です。次のページにて詳しく説明します。

ぜひご覧ください。


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