幽体離脱体験日記

6 神

2004年5月22日

トップへ
トップへ
戻る
戻る





神を身近に感じるか?

私たち文明人は、日常に神を感じなくなってきていると考えます。

おそらく人間が文明を持たぬ時代には全員が神の存在を

身辺に感じていたはずです。よく神の存在を信じるかどうかが

テーマになりますが実際は、存在を感じることの出来る人と

出来ない人に分かれているのだと思います。

そして一つだけいえることは何でも、物事を深く考える習慣を

持つ人の方が神の存在を確信しており、あまり自分で考える

習慣を持たない人は神の存在を信じていない傾向があるのは

事実です。おそらく歴史的な科学者や芸術家などは大半の人が

神の存在を感じていたはず。よく死後の世界や神の存在を信じぬ

人が科学的という言葉を多用します。どちらの態度が科学的でしょうか?

深く考えるほどに、これらを否定できなくなるのが道理ではないか

と思うのですが一般の考えは逆で、神の存在など信じる人を

サンタクロースを信じる子供と同列に見なしているようです。

なぜ現代人の多くは神を身近に感じなくなったのでしょうか。

私は日記の中で、宇宙が神の肉体と指摘したのです。

地球も神の肉体の一部のはずで、神は毎日自分を見よと

強制しているようです。でも町を歩いていて神を感じることは

あまりありません。なぜでしょうか?それは人間が、神の肉体を

アスファルトで覆い隠してしまったからです。でも多くの人が

山の頂上に立つとき神を身近に感じないでしょうか?

海を眺めているとき、星空を眺めるとき、飛行機の上から

下界の雄大な景色を眺めているとき、不思議な感覚に

襲われます。でも多くの人は自分のこのような体験に素直に

なれないのです。なぜいつまでも神を拒否するのでしょうか?

宇宙飛行士などは宇宙の神秘的姿に神の存在を身近に

感じるといいます。でもこんな話をすると作り話と多くの人が

否定するのです。そんな人たちは全くそんな体験をしたことが

ないと言い切れるのでしょうか?

神を考察する

宗教的見地からは神に対する考察などタブー視されている

のではないだろうか。ただ単に恐れ敬うだけの絶対的権力者

としての神の存在しか許されていないのです。歴史は宗教を

政治の道具として利用を続けました。権力者は、このような

絶対者としての神の存在を民衆に認めさせることにより自分の

地位を不動のものにしてきたのです。その意味ではブッダの

思想は後の世では危険な思想と見なされ、本来の教えを書き直す

必要に迫られたのです。なぜなら本来の仏教は自帰依、法帰依

が大原則だからです。拝むべき対象を持たぬブッダ、タルマーは

権力者に不都合なのです。もともと彼の思想はバラモンという

支配階級に対する批判的態度で構築されたもので当然の結果と

いえましょう。しかし、我々は今こそ神について深く考えてみるべきです。

権力者たちは力を失い、今、目の前から消え去ろうとしているのです。

今こそ神について深く知るチャンスであります。

神を構成する要素

日記の中では人間と神の構成を「同じシステムによる存在」と

説明しました。つまり人間も神も意識と肉体という二つの要素より

構成されると。一般的には神は意識だけの存在と考えられて

いると思います。このように考えた場合、意識は自分の意思を

持つ単独成立可能な存在と認める必要があるはずです。

しかし、私は意識の説明で意識は単なる計算機であり自分の

意思を持たないと説明したのです。ここで再度私の意見を

主張しておきます。意識は個性や自分の意思を持たないのです。

それゆえに過ちを絶対犯さぬ存在であると。そう説明すると

この宇宙に一つしか存在しない計算機である意識は不生不滅、

不増不減、不垢不浄であり永遠に変化しない存在イクオール

神であると誤解される恐れがあるのです。不垢不浄とは綺麗

とかきたないとかの評価が出来ないという意味で個性を

持たないという意味です。神も人間同様この意識と

宇宙全体という肉体の相互依存的存在なのです。

自由な意思

私たちの宇宙あるいは別次元宇宙においては自由な意思を

持てるのは私たち人間はじめ全ての動物に限られます。

そしてその条件を満たすためには肉体を持つということが

絶対条件となるのです。つまり意識だけでなく他に自分の意思を

表現できる表現手段としての肉体が不可欠です。良く考えて

みてほしい。当たり前の話だ。どうして自分の意思を外部に

伝えることができないのにそれが自由な意思を持つと確認できる

だろうか?肉体つまりは自分の個性だ。無個性な存在が

もし自由に行動したらその行動が個性として現れてしまいます。

話が矛盾してしまうのです。そして当然宇宙に一つの意識に

計算命令を出せる権限は自由意志を持つ神と全ての動物

に限られているはずです。意識は命令権を持つこれらの存在

抜きには何一つ動作が出来ないのです。

神の命令権

よく私たち人間が神のコントロール下に置かれていると考える人が

大勢います。このような考えはまことにおろかです。

神が命令を下せるのは光に対してのみです。神は人間に

命令を下せるフォーマット形式つまり言語を持ち合わせていないのです。

DNAは私たちの肉体の成長に命令を下せますが、私たちの

結婚相手や就職先までDNAが決めていると考えるならその人は

単なる与太者です。神の言語である重力も肉体の形を決めている

だけの機能しか持たず、重力が我々に、次はこのように行動せよとか

命令を出せるはずがないのです。これが自由な意思というものです。

そんなことはない、私たちの運命は全部神様が決めるのだと主張する

のなら人間の存在意義はゼロです。神の存在だけで十分です。

誰かが犬を散歩させているとき、目の前に神が現れ、「なんじ、

犬よ、お手をしなさい」と命令しても犬はお手をしないでしょう。

なぜなら犬にとっては神様よりも、自分のご主人様の方がえらい

からです。神とは犬にさえ命令権を持たぬ存在です。それとは

知らずに人間のみが自分の趣味のために他の動物に首輪を

付けて連れ回し他の動物の自由を奪うのです。

日記の中で何度も、人間は永遠に自由そう主張しました。

深く考えようとしない人はそんな基本的なことが分からなくなる

だけでなく神の存在すら見えてはこないのです。

自由意志と責任

自由意志を持つもの全てが、自由意志という権利の代償

としての義務を負わされるのです。その義務とは自分の人生

に対する責任です。当然のことながら自由に行動した結果

その責任の所在は全てその本人にあるということになります。

私たち人間には悩みや苦しみがあります。その原因は実は

この人生にたいする責任から来ているのです。もし自分の

人生に何の責任も感じない人がいるならばその人には悩みも

苦しみも一切ないはずです。しかし現実にはそんな人は一人も

いないはずです。ただし日記でも何度も説明したように私たち

人間の責任は記憶の存在範囲のみ、つまりは生まれてから

死ぬまでの間の有限責任しか負わないということです。

つまりは死は我々の罪の事項にあたり死後は生前の記憶を

持たぬゆえに責任を追及されることはないのです。

神の責任

神だけが無限責任を負わされることになります。なぜならば神は

宇宙の全記憶を持つ存在だからです。これは私たち人間には

とても耐えられそうもありません。人間は自分たちの悩みや

苦しみで、手一杯のはずです。全人類のそれを一人で背負わされた

のではかなわないと誰もが思うはずです。しかし神は宇宙の全秘密を

知っているのです。(唯一つのことを除き) それゆえに私たち人間の

全部の苦しみを共に共有しながらも、喜びの境地の中にいることが

出来るはずです。ここに私たち人間の悩みや苦しみを解除する

秘密があるのです。私たち人間の最大の苦は死ぬことでしょう。

おそらく命よりもお金が大事と考える人は一人もいないはずです。

神は一人ひとりの死を認識し共に共有しながらも、人間のように

それを苦であるとは考えていないのだと思うのです。おそらく

宇宙の全システムを知っているからこそ死が、さらなる向上に向かう

単なる通過点であることを知っているはずです。人間はこのような

宇宙の秘密を殆ど知らないがゆえに苦しむのです。死が全ての罪の

時効であることを知って初めて死が残酷なものではなく、神の

愛情表現だと気づくはずで、神とは宇宙の全てをこのように

発展的に捉えることの出来る究極のプラス思考者であるといえます。

救世主

私たちは皆、弱い存在です。だから困難や苦しみに出会うたびに

神や救世主にすがりたくなるのです。しかし本当に私たち人間の

苦しみを神が引き受けることが出来るでしょうか?そのようなことが

出来るはずはないのです。なぜならば、神がそれを引き受けた時点で

人間の人生に対する責任を放棄することになるからです。

これは自分の自由意志の放棄に直結するのです。つまりこの権利と

義務は相反する2つの人間構成の要素であり、相互依存的存在で

どちらか片方の消滅は両方の同時消滅を意味するのです。

ここでも権利(自由)と義務(人生の責任)との関係に色即是空の

法則が見て取れます。仮に神が困難に出会ったときいったい誰が

神を助けるでしょうか?私の主張は神と人間との対等な関係であり

神が人間を救うのならばその時点で対等な関係は崩れるのです。

従来の宗教はこの点、人を安心させる麻酔のような効果があります。

おそらくは文明が未発達な時代に、全員が深い考察を実行するのは

困難だったからです。今はもうそんな言い訳はできないはずです。

神の存在を信じてない人は、もし神が存在するなら人間の願いを

全部聞き届けるはずと主張するでしょう。このような考えこそ

浅くて安易な考えなのです。もっと深く考察すれば真実の神の姿が

見えてくるはずです。救世主と呼ばれたキリストはなぜ十字架に

掛けられあんな苦しみに出会ったのでしょうか?私たちの苦しみを

救世主に背負わすことが出来るなら私たちは自分の義務を全部

放棄することになるのです。もうそんな2000年も前の幻想を

いつまでも追い続けるわけにはいかないはずです。文明人を自負

するのならば自分の問題は自分で解決出来るはず。全員が

偉大なる知恵。般若波羅蜜多を内在しているという事実に気が付けば

幸せを勝ち取ることができるはずです。

神の個性

神は一人であると考えております。しかしそれと同時に複数の個性を

持つ存在なのです。人間と大きく違うのは神は同時に複数の

肉体を所有する点です。神の肉体は宇宙そのものです。この宇宙は

無限に連鎖しています。このように神は同時に複数の肉体を所有

する存在であり、肉体ごとに違う個性を有すると考えております。

静かなる神から激しい神に至るまで、それぞれの宇宙の進化が

異なるプロセスであることは明白です。無限に存在する宇宙は

どこにも全く同一の宇宙など存在するはずがありません。

それでも私は多神教的考えを持ちません。複数の神の肉体は

宇宙の全記憶という、ただ一つの人格に支えられていると考える

からです。つまり神は複数の肉体を持つただ一人の人格者だと

予想するのです。私たち人間は肉体は一つしか持ちませんが

おとなしい人が急に怒り出したり、いつもは慎重な人があせって

ミスしたり、人間も神の性質を受け継いでいるように見えます。

しかし神の複雑な個性は人間の比ではありません。人間が作る

作品には同一人物が違うテーマを手がけてもどこかに共通の

作風というものが出るものですが、神には作風が無限にあるようです。

人間とカブトムシはとても同一人物の作品には見えません。

神は無個性なる存在ではなく、逆に無限の個性を持つ存在なのです。

神をもし完全なる存在で、過ちを犯さぬ存在とするためには

個性の除去が不可欠です。個性すなわち肉体を持つものは自由意志

の所有がゆるされます。この個性の表現体である肉体と自由意志を

持つ限りは完全無欠とは言いがたいのです。このようなことを

考えるとき神や死後世界のみを除外すると誤った結論が出てしまいます。

神は記憶領域が無限であり、無限の個性を持つゆえに人間から

見ると全知全能に見えるでしょうが、本人がどう考えているだろうか?

という点については各自、瞑想法による深い考察を重ねてほしい。

神にさえ分からぬこと

日記では神は物理の法則の範囲内で万能と説明しました。

神でさえ物理の法則に反することはできるはずがありません。

おそらく宇宙の隅々まで調べ上げても、物理の法則に反する現象は

見つからないはずです。神でさえ無から有を作ることなど出来る

はずがないからです。

しかし神は宇宙の全記憶を所有しており、何でも知っているはずです。

しかし私は論理的思考を繰り返すことにより(瞑想法)一つだけ

神にさえ分からぬ宇宙のなぞがあるのでは?と推理したのです。

私とは誰か?

私たち人間は私とは誰か?という問いに誰も答えることが出来ません。

自分はなぜ今ここに存在しているのでしょうか?

それで次の命題による瞑想を試しました。もし私の人生に始まりが

なかったらという、仮想実験です。しかし途中で中断しました。

人生に始まりがないという認識が大変難しいのです。これはおそらく

過去へと向かう逆向的思考が困難なのだと思い、命題を変更した。

自分に死が訪れず永遠に生きたら、という題にしてみた。

私の意識は千年、一万年どんどんと未来へ向かう。そして私は

宇宙の全ての秘密を知るものとなった。しかしどのように考えても

全てを知れば知るほど自分とは何者か?なぜ今もここに存在するのか?

ますます分からなくなる、というのが私の結論です。

神ははじめから宇宙に存在していたものです。始まりがない存在が

自分がなぜそこに存在をしているのか知っているでしょうか?

私たちは少なくとも自分の人生に始まりがあり、母の胎内から

誕生したという事実だけは知っているはず。しかし神にはそれが

ないのです。この件は私の推論であり、各自瞑想法により

試してもらいたい。違う結論を見つけた方はご報告をお待ちしております。

この辺は人間も神も立場が同じと考えており、神がなぜ人間を

創造したのかの秘密の一部と考えております。

はたしてこの人間創造の一大プロジェクトは成功したのでしょうか?

次回予告

次回は宇宙の真実最終回「解脱」を予定しております。

ブッダの十二縁起による解脱法は成功するのでしょうか?

私の答えは「失敗する」となります。次回ブッダの解脱法を完全に

解説したとき、多くの人がそんなばかなと思うはずです。

ブッダの解脱とは一般の人が考える、それとはかけ離れたものです。

また、ブッダは大きな見落としをしているのです。それは意識に関する

考察です。次回をお楽しみに。


次のページへ